a 長文 9.4週 nngi2
 ところが、ある日、ハッと気がつく。からだの中は、まったくなにもレッテルがはってない。まだ、まっ白ではないか。そこで、からだの中身に名前をつけていく。解剖かいぼうしなくても、ある程度はわかる。大ケガをした人や、死んだ人を見ていれば、からだの中について、いくらかの知識が得られる。そこで、からだの中にある「構造」に、名前をつけることをはじめる。
 名前をつけるとは、どういうことか。ものを「切ること」である。エッ。名前と、「切ること」とは、なんの関係もないじゃないか。
 名前をつけることは、ものを「切ること」なのである。なぜなら、「頭」という名をつければ、「頭でないところ」ができてしまう。「頭」と「頭でないところ」の境は、どこか。
 だから、「頭」という名をつけると、そこで「境」ができてしまうのである。「境ができる」ということは、いままで「切れていなかった」ものが「切れる」ということである。国境が変わったとしよう。昨日まで、自分の国だったから自由に行けたはずの町が、今日からは簡単に行けなくなる。それは、日本では起こったことがないが、大陸の国では、しばしばあったことである。
 地面はずっと続いているのに、「中国」と「インド」という国ができると、「境」つまり国境ができる。つながっているはずの地面が、「切れてしまう」ではないか。
 でも、国は人間が勝手に決めた。からだは自然にできたのではないか。だから、言ったでしょう。自然に起こることは、たとえ生死であっても、その境は、簡単には決められませんよ、と。
 それを簡単に「切ってしまう」のは、だれか。「ことば」である。名前である。ことばができると、つながっているものが切れてしまう。ことばには、そういう性質がある。
 人のからだに、名前をつける。名前がついた部分は、ほかの部分とは、頭のなかでは「切れて」しまう。頭、首、胴体どうたい、手、足。その「境」を、きちんと言えるだろうか。そんなことは、だれも言えないのである。なぜかって、「一人の」、そのなかに、境はない。ただ、人の「部分」に、手だの足だのという「名をつける」と、人が「切れて」、バラバラになってしまうのである。もちろん、実際にバラバラになるわけではない。「ことばの中では」である。でも、人はほとんど「ことばの世界」に暮らしている。だから、やっぱり、「切れた」と言っていいのである。
 これが解剖かいぼうのはじまり。なぜなら、ことばの中、すなわち頭の中で、からだがまず切れてしまうから、実際に「切る」ことになるの
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である。
 そんなバカな。頭のなかで「切れる」のと、実際に「切る」のとは、違うちが でしょうが。それは、違うちが 。でも、頭の中で「切る」から、やがては実際に「切る」ことになる。頭の中で、車というものが考えられたから、やがて実際に車が作られるようになったのである。車というものができたおかげで、車を考えついたわけではない。新しい車を作るなら、まず設計図を引かなくてはならない。車ばかりではない。頭のなかで、家の設計図がまずできるから、家がたつ。人のからだを「ことばにしよう」とするから、解剖かいぼうがはじまるのである。なぜなら、ことばには「モノを切る」性質があるからである。
 ああ、難しかった。そうでもないでしょう。ことばには、ものを切る性質がある。人間は、頭で考えたことを、外に実現するくせがある。この二つのことを知っていれば、解剖かいぼうのはじまりがわかるのである。

(養老孟司たけし解剖かいぼう学教室へようこそ』による)
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