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 世間では、いま、表現教育ということが盛んに叫ばさけ れている。子供たちに、どうにかして「豊かな表現力」「だれとでも話せるコミュニケーション能力」を身につけさせようと、親も教師も躍起やっきになっている。子供の方から見れば、表現を強要されているとさえ言える状況じょうきょうだ。
 だがどうも、教える側も、子供たちの方も、「表現」ということを無前提に考えすぎていないか?
 いや、いったい、何をそんなに伝えたいというのか?
 私はここ数年、演劇のワークショップ(体験型の演劇教室)を、年間で百コマ以上、全国で繰り返しく かえ 開催かいさいしてきた。教育の門外漢に、このような依頼いらい殺到さっとうするのも、表現教育隆盛りゅうせいの一つの現れであろうか。
 ただ、私が、そういった場で子供たちに感じ取ってもらいたいことは、表現の技術よりも、「他者と出会うことの難しさ」だった。どうすればコミュニケーション能力が高まるかではなく、自分の言葉は他者に通じないという痛切な経験を、まず第一にしてもらいたいと考えてきた。
 高校演劇の指導などで全国を回っているといつも感じるのは、生徒創作の作品のそのいずれもが、自分の主張が他者に「伝わる」ということを前提として書かれている点だ。
 私は、創作を志す若い世代に、演劇を創るということは、ラブレターを書くようなものだと説明する。「おれは、おまえのことがこんなに好きなのに、おまえはどうしておれのことが分かってくれないんだ」という地点から、私たちの表現は出発する。分かり合えるのなら、ラブレターなんて書く必要はないではないか。
 日本はもともと、流動性の低い社会のなかで「分かり合う文化」を形成してきた。だれもが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、お互い たが お互い たが の気持を察知して、小さな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の特徴とくちょうであり、それ自体は、卑下ひげすべきことではない。
 明治以降の近代化の過程も、価値観を多様化するというよりは、大きな国家目標に従って価値観を一つにまとめる方向が重視され、教育も社会制度も、そのようにプログラミングされてきた。均質化した社会は、短期間での近代化には好条件だ。日本は明治の
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近代化と、戦後復興という二つの奇跡きせき成し遂げな と た。
 しかし、私たちはすでに大きな国家目標を失い、個人はそれぞれの価値観で生き方を決定しなければならない時代に突入とつにゅうしている。このような社会では、価値観を一つに統一することよりも、異なる価値観を、異なったままにしながら、その価値観を摺りす 合わせ、いかにうまく共同体を運営していくかが重要な課題となってくる。
 いま、あらゆる局面で、コミュニケーション能力が重視されるのは、ここに原因がある。「分かり合う文化」から、「説明し合う文化」への転換てんかんを図ろうということだろう。
 だが、ここに一つの落とし穴がある。
 表現とは、単なる技術のことではない。闇雲やみくもにスピーチの練習を繰り返しく かえ ても、自己表現がうまくなるわけではない。
 自己と他者とが決定的に異なっている。人は一人ひとり、異なる価値観を持ち、異なる生活習慣を持ち、異なる言葉を話しているということを、痛みを伴うともな 形で記憶きおくしている者だけが、本当の表現の領域に踏み込めるふ こ  のだ。多くの優れた芸術家は、自分の中にその断念、その絶望を持っている。ひとは幼少期、自分のことを決して受け入れてくれない他者の存在を発見する。その哀しみかな  を忘れない者だけが、芸術家という名に値する。(中略)
 私たちがこれから作っていく成熟社会の緩やかゆる  きずなは、お互い たが が分かり合えないという絶望から出発する。この絶望の中にのみ希望はある。だとすれば、分かり合えないことを、その存在の根拠こんきょとする芸術の役割は小さくないだろう。学校や家庭や社会の中で、子供たちに、その発達過程に合わせて、「伝わらない」という切実な体験をさせる、そんな芸術教育のプログラムが、いま必要とされているのではないか。

(「新世紀の思考」(平田オリザ)より)
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