1世間では、いま、表現教育ということが盛んに叫ばれている。子供たちに、どうにかして「豊かな表現力」「誰とでも話せるコミュニケーション能力」を身につけさせようと、親も教師も躍起になっている。2子供の方から見れば、表現を強要されているとさえ言える状況だ。
だがどうも、教える側も、子供たちの方も、「表現」ということを無前提に考えすぎていないか?
3いや、いったい、何をそんなに伝えたいというのか?
私はここ数年、演劇のワークショップ(体験型の演劇教室)を、年間で百コマ以上、全国で繰り返して開催してきた。教育の門外漢に、このような依頼が殺到するのも、表現教育隆盛の一つの現れであろうか。
4ただ、私が、そういった場で子供たちに感じ取ってもらいたいことは、表現の技術よりも、「他者と出会うことの難しさ」だった。どうすればコミュニケーション能力が高まるかではなく、自分の言葉は他者に通じないという痛切な経験を、まず第一にしてもらいたいと考えてきた。
5高校演劇の指導などで全国を回っているといつも感じるのは、生徒創作の作品のそのいずれもが、自分の主張が他者に「伝わる」ということを前提として書かれている点だ。
6私は、創作を志す若い世代に、演劇を創るということは、ラブレターを書くようなものだと説明する。「俺は、おまえのことがこんなに好きなのに、おまえはどうして俺のことが分かってくれないんだ」という地点から、私たちの表現は出発する。7分かり合えるのなら、ラブレターなんて書く必要はないではないか。
日本はもともと、流動性の低い社会のなかで「分かり合う文化」を形成してきた。8誰もが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、お互いがお互いの気持を察知して、小さな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の特徴であり、それ自体は、卑下すべきことではない。
9明治以降の近代化の過程も、価値観を多様化するというよりは、大きな国家目標に従って価値観を一つにまとめる方向が重視され、教育も社会制度も、そのようにプログラミングされてきた。0均質化した社会は、短期間での近代化には好条件だ。日本は明治の
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