a 長文 9.2週 nngi2
 「私は何ものなのか?」という問いへの答えは、二人称ににんしょうでの語りかけと、三人称さんにんしょうでの描写びょうしゃと、一人称いちにんしょうでの思いが、少しずつ重なり合ってくることによってしか、与えあた られない。したがって、「まだ呼びかけうるかも、なお応じうるかも……」という呼応の可能性なしには、答えの探しようもない。この呼応の可能性に支えられて、諸種の描写びょうしゃが重なってくるにつれ、「どうやら私は……らしい」という果実もみのる。もちろん、そうした果実の多くは、しばし甘美かんびだったとしても、「自己正当化ゆえのあまさにすぎなかったか……」という苦みをも残す。しかし、そうした苦みは、さらなる呼応への敏感びんかんさを養ってくれる。
 呼応、つまり呼びかければ応答があるということは、人の間かつ時の間の、一回的な出来事であり、したがって、一見ささいな出来事である。しかし、私もあなたも、そうした呼びかけ・応答をつうじて、はじめて、曲がりなりにも自分のかけがえのなさを確認しえている。あなたも私も乳児と親の間柄あいだがらからはじまって、呼応の可能性をたよりにして、はじめて相手に向かって振舞うふるま ことができ、そうした相手との間で、自分のかけがえのなさを、曲がりなりにも確認してきた。にもかかわらず、このナケなしの呼応の可能性も、あまりにも当たり前であるがゆえに、あたかも空気のように、見過ごされうる。
たとえば、こうである。いわく「呼びかけられうること、呼びかければ応じられうることは、なるほど幼児が自分を意識するようになる過程では必要かもしれない。しかし、ひとたび自分を自覚するようになれば、他人との呼応の可能性などは、登ってしまえば無用になるハシゴのようなもので、べつになくなってもかまわない……」云々うんぬんとりわけ、どこへ行っても注目され、あるいは気をつかってくれる人に囲まれて、向こうから声をかけてもらえるような立場にある人は、えてして、こう考えやすい。
 しかし、呼応の可能性の大切さを見切ってしまうのには、あまりにもありふれているという以外にも、べつの原因もある。私たちはそれぞれ自分の生活に忙しいいそが  。だから、自分にとって必要でもないことにかんして、あるいは直接に関係ないと思える人から、呼びかけられても、いちいち応じてはいられない。私たちはそう考えて、自分が応じる呼びかけの範囲はんいと種類を、自分のほうから限って
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しまう。じじつ、そう限定しなければ一日何時間あっても足りない。そこまで私たちに向かって多種多様な呼びかけが発せられている。のみならず、私たちが呼びかけとして聞き分けていない声は、さらに多種多様である。したがって、自分が応じるいわれのある呼びかけの種類と範囲はんいを限定することは、自分の生活がある以上、やむをえない。
 こうした自己保身ゆえに呼応の可能性を切り詰めるき つ  と、「このくるめきには応えなくてもいいだろう」と見切った他人の呼びかけを聞き流し、その切実な訴えうった を見殺しにする。しかし、それだけではすまない。「もともと私は応える立場にはいないのだから……」と自分に言い聞かせて、聞き流したことを自己正当化することになる。そして、こうした自己正当化は、もっとも身近な他者の聞き取りにくいくるめきさえも、たんなる雑音として切り捨てることの正当化に連なる。
 そのツケは、声の小さい者たちに回され、かれ彼女らかのじょ において、「何ひとつ応答などなかったではないか……」という苦い思いを生み、「他人との呼応の可能性など、当てに出来ない……」というシニシズムを生む。そして、このシニシズムとともに、もっとか細い声への鈍感どんかんさが蔓延まんえんし、その結果、人は自分に向けられている切実な呼びかけを自分が無視しているという事実すら気づかないようになる。そうなると、それだけいっそう、自分が何であるかについても、不安になる。こうして「私探し」がいたずらに加速される。
 もちろん、ひとくちに「私探し」といっても、その実態も背景も多種多様であって、すべてが、呼応の可能性の切り詰めき つ 還元かんげんできはしない。しかし、もしあなたが、「呼応の可能性など当てにできない……」という印象をよすがとして、「他者にたいして特定の人物であることなど、自分が自分であるためには二次的・三次的なことだ……」と思いはじめているのなら、もう一度、考え直していただきたい。

(大庭健の文章による)
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