1自己表現の意欲は、言葉あるいは文字として表してみて、初めて具体性を帯びる。自発的にものを考えるようになって、人は初めて自分の言葉を発する。言葉に対して自覚的になると言ってもよいでしょう。2言葉なくして、考え、迷い、一念を生じ、邂逅することはあり得ないのです。
ところが、このとき間髪を入れず、言葉の不自由、その障害に突き当たるという事実を見逃すわけにはゆきませぬ。3例えば我々が平生使っている思想や文学上の用語、精神とか知性とか主体性とか実存とか、なんでもいい、その一つ一つを取り上げて、これを厳密に検討してごらんなさい。一つとして曖昧ならざるものはない。4各人によってさまざまの解釈や定義やニュアンスを生じ、それをまた一つ一つ解釈し定義して行かねばならぬといったような、途方もない迷路に入り込んでしまいます。
5言葉というものは、おそろしく不完全なものだと悟ります。実に曖昧です。そういう言葉をさまざまに組み合わせつつ、かろうじて自分が言いたいと思っている思想的イメージに近づいてゆく。6それは依然として不完全ではあるが、この不完全の自覚が、我々の考える力を更に押し進める原動力ともなるのです。精神の問題は、幾何学の公理のように割り切れない。7しかし、幾何学の公理のように、その一つ一つの正確さを目ざすことは大切で、この無限の正確さへの意志が、言葉を開拓して行くともいえましょう。言葉を使用するとは、開拓して行くことと同義なのです。そこに精神としての「自己」が存在するわけです。8言葉の不自由な性質そのものが、言葉の生命だといっていいかもしれませぬ。
言葉のかような性質が、逆に我々をして、考えさせ、迷わせ、一念を生ぜしめ、邂逅を促すといってもいい。9言葉に翻弄される自己を見いだすでありましょう。翻弄に翻弄を重ねて、さて、その極限に見いだすものは何か。我々は、初めて「沈黙」の意義を知るのです。例えば非常にうれしいとき、悲しいとき、感動したり、さまざまに思い惑うとき、どんな現象が起こるか。言葉を失っている自
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