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 だれでも情報には「量」というものがあると漠然とばくぜん 信じている。コンピュータが安価になり、身近な存在になるにつれて、「ビット」という工学的な情報量の単位も日常用語として使われるようになってきた。四八ビット・パソコンは三二ビット・パソコンよりたくさんの情報を一度に扱えるあつか  はずだろう。
 こういう「情報量」は、技術的話題に登場するだけではない。われわれはよく「この本はぶ厚いわりには情報量が少ない」と文句を言ったりする。言うまでもなくこれは、ぺージ数(文字数)という「見かけの「情報量」」が一般いっぱんに読み手にとっての「情報量」とは異なるという事実を語っている。
 さて、右のありふれた言葉は、「情報量」という概念がいねんの危うさの証左でもある。この言葉は、ひとまず二通りに解釈かいしゃくできる。「内容が知っていることばかりだ」と「興味が湧かわ ない」の二つである。「知らないことを教えてくれるのが情報だ」という立場に立てば、第一の解釈かいしゃく妥当だとうだろう。これは情報を「客観的」にとらえようと努める立場である。
 だが、内容に知らないことが多く理解し難いとき、読み手にとって果たしてその本の「情報量」は多いのだろうか?──内容が理解できなくて「(主観的な)興味」が湧かわ なければ、「情報量」はやはり少ないのではないだろうか。
 そもそも、「内容を知っている」とはどういうことか? ──「フランス革命は一七八九年に起こった」といった命題なら「知っている」と言えるだろうが、「二一世紀に日本社会のモラルは堕落だらくする」などのあいまいな命題なら、興味の有無を答える方がましだろう。むしろ、知っていることばかりなら興味も湧かわ ないはずだという立場に立てば、「情報量が少ない」とは、すなわち「興味がない」「魅力みりょくがない」ことだと断じる方が直観に一致いっちしている。
 だからこそ、情報とは「いざなうもの」でなくてはならない。生物であるわれわれの興味を惹くひ 魅力みりょく的な対象が、はじめて情報として「意味」をもつのだ。
 このように、情報を「意味=価値」があり、「いざなうもの」とみなすことは、心の側から情報をとらえることである。言い換えるい か  と、情報の「伝達」よりむしろ「生成」の側面に目を向
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けるわけである。環境かんきょう世界のなかで、心がいったい何を「情報」として選びとるか、が問題となるからだ。環境かんきょう世界からは、光、音など無限に多様な外部信号が降り注ぐ。はっきりさせなくてはならないのは、その中から心が何を選びとり、いかにして「情報」として構成していくか、という点なのである。
 もちろんこれは、哲学てつがく的な認識論や存在論にかかわる難問であって、とうていここで論じ尽くせるつ   テーマではない。だが、一九七〇年代にあらわれた生物物理学者清水博の情報理論は、この難問に一筋の光を投げかけるように思える。そのポイントは、生物をみずから秩序ちつじょをつくっていく「自己組織系」とみなし、系の秩序ちつじょ生成のダイナミズムのなかに「情報」の発現を位置づけたことにある。清水によれば、生命システムとは、「システム(自分)の存在にとって意味のある情報を、内部知識と内部法則にもとづいて自分自身でつくりだしていく」ものなのだ。
 右のような「意味」の自律的生成を、文章による説明に終わらず数学的なモデルで詳しくくわ  記述したところに、清水とそのグループによる科学者としての先駆せんく的業績がある。「情報」をその意味内容に立ち入ってとらえる科学研究はすでに始まっているのだ。
 生物がいかなる「情報」をつくるかはいわば生物の「価値観」にひとしい。ゆえに情報を「いざなうもの」「興味のあるもの」「価値のあるもの」とみなすことは、決して単なる文学的な比喩ひゆ表現ではないのである。二一世紀の知性は、情報生成のダイナミズムをさぐる新しい情報科学のうちに最大の課題のひとつを見いだしていくだろう。

西垣にしがき通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』による)
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