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 科学は自然の対象を観測し、そこに存在する構造や機能の法則性を明らかにする。ある対象領域に成り立つ法則を発見した、法則を確立したというのは、どのようにして保証するのだろうか。
 ボールを投げると放物線をえがき、ある一定の距離きょりに落ちる。ある物質と物質を混ぜてある一定の温度に保つと、反応してある物質ができる。こういった多くの実験から、そこにある種の規則性を認識し、そこから法則を確立していくわけであるが、その法則は実験によって確かめるというプロセスを絶対的に必要とする。しかも、だれがやっても同じ結果が得られるということでなければならない。
 このように、科学は、自然のなかに存在する対象を分析ぶんせきし、そこから法則を抽出ちゅうしゅつし、対象を分析ぶんせき的に理解するというところに中心があった。こうして法則が確立されると、つぎの段階として、これらの法則の新しい組み合わせを試みることによって、それまで世界に存在しなかった新しいものをつくりだせる可能性があることに人々は気づいたわけである。
 法則を組み合わせて、実験をしてみて、もとの対象が復元できることを確かめるところまでは、科学の領域であろうが、法則をいろいろと新しく組み合わせて何か新しいものをつくっていくというつぎのステップは、シンセシス、あるいは合成・創造の立場であり、それが現代における技術であるということができる。つまり、現代技術は科学の法則を意識的にあらゆる組み合わせで使ってみて、何か新しいものをつくりだしていこうとする明確な意図をもったものとなっていて、これが従来の技術とは明確に異なっているところである。
 このように分析ぶんせきと合成とは対概念がいねんとなり、したがって、科学と技術も対概念がいねんであり、コインの裏表の関係であると理解される。そこで、これら全体は科学技術という一つの概念がいねん、一つの言葉としてとらえることができるだろう。
 科学と技術とはまったく異なる概念がいねんで、科学技術という表現は適当でないという考え方をする人もいる。しかし、現代科学は高度の技術なしにはありえず、その技術も科学によって支えられている。今日では、科学者自身がシンセシスの領域に本格的にのりだしてくる一方で、技術者のほうも、技術を押しお すすめるために本格的な科学的基礎きそ研究をおこなっている。
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 こうして、科学と技術の境界は判然としなくなってきているうえに、何か新しい発見があると、これがただちに技術の世界に使われて新しい発明につながり、これがまた基礎きそ研究にフィードバックされるという、ひじょうに速いサイクルをえがく時代になっている。そういった状況じょうきょうからも、これら全体を科学技術と呼ぶのが適当であるというわけである。
 二〇世紀の技術は、それ以前の技術とはまったく異なるものである。昔の技術は、アート(art)という言葉がしめすように、その道の専門家の直感と努力によって磨きみが ぬかれた技芸であり、芸術にせまる何ものかであったわけで、科学とは何の関係もないものであった。ところが、二〇世紀における技術は、科学によって確立された対象についての法則を、意図的、体系的、網羅もうら的に組み合わせて用い、新しいものを手当たりしだいにつくりだすというものである。これが現代技術のもつきわだった特色である。
 そこで一つの大きな問題が浮かび上がっう  あ  てくる。これまでの科学は神が創造した地球と自然、そしてそこに存在する物を観察し、理解するということをおこなってきた。そのかぎりにおいて、科学は謙虚けんきょであり、科学は価値中立であるとされてきた。しかし、神のみがもっていたものごとを創造する秘密を、今日私たち人間が手に入れ、あらゆる法則を無原則的に組み合わせて、できることは何でもおこない、どんどんと新しい物を勝手につくりだしつつあるわけである。そして、それらはけっして地球と自然、生物や人間にとってよいものばかりではない。一見よいものと見えても、長期にわたってながめてみれば、深刻な問題をもたらすものもたくさんつくりだしているのである。
 したがって、今日の科学技術においては、価値中立ということはありえず、私たちがつくりだすものについては、はっきりした責任を負うべきであろう。二一世紀にはあらゆる科学技術の分野において、分析ぶんせきの時代が終わって、創造の時代に入っていくことは明らかであるから、科学技術に対する人類の責任は重大である。

長尾ながお真『「わかる」とは何か』による)
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