1「書物」とはいったい何だろうか! それを評価するとか、読むとかいうことは何を意味するのだろうか? それを売るとか買うとかいうことになるのは、何だろうか?
これらの問いに、もっとも近づきやすいのは、「書物」を人間からもっとも遠くにある観念の「人間」とみなすことである。
2わたしたちは誰でも、子どものころは親とか兄弟とか友人とか教師から、知識や判断力や書物にたいする習慣的な位置のとり方を習いおぼえる。そして青年期に足を踏みこむと、しだいに親や兄弟や教師たちを、教え手としては物足りなく思いはじめ、離反するようになる。3これは個人にとっては「乳離れ」とおなじで必然的なものである。
しかし、わたしたちは誰もここで錯覚した経験をもっている。親や兄弟や教師などはくだらない存在であり、自分はかれらより優れてしまったし、かれらより純粋であるし、かれらから学ぶものはなにもないというように思いはじめる。4こういう思い込みが真実でありうるのは、半分くらいである。あとの半分では、青年期に達したとき、わたしたちは眼の前に何を与えられてもくだらないし、何にたいしても否定したいという衝動をもつようになる。
5これは、自己にたいする不満の投射された病いにすぎない。つまり誰もかれを満足させるものではなく、何を与えても否定的であることの一半の原因は、対象の側にはなく自己の側にあるだけである。
6この時期に、わたしたちは、じぶんを充たしてくれるものとして、「書物」をもとめる。「書物」は周囲で眼に触れる事柄や人間にすべて不満である時期に、いわば、「肉体」をもたない「親」や「兄弟」や「教師」の代理物としてあらわれる。
7ほんとうは「書物」は、身近にいる「親」や「兄弟」や「教師」などよりつまらないものであるかもしれない。しかしわたしたちは青年期に足を踏みこんだとき、「書物」には肉体や性癖や生々しい触感がなく、ただの「印刷物」であるということだけで、不満や否定から控除するのだといってよい。
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