a 長文 2.1週 nnge2
 しかし、ここで面白いのは「やりたいこと」とか「好きなこと」といっていても、それをいう自我主体に多少とも疑いを抱きいだ 始めているということである。本当は何が好きなのか、何をやりたいかわからないから、肉体的「行動」を、ともかくもおこし、そこで味わえるはずの未知の経験から得られるであろう感覚、感情に身をゆだねようということになるのである。これはまあ、いわばよく解釈かいしゃくした場合ではあるが、そして今の若ものたちの流行のなかには、すべてとはいわないまでもこういう要素がふくまれていると見てよいだろう。ところがこの方向をまともにやって行こうとするなら、これはいわばニヒリズムを方法として用いるということであるから、かなりの精神的緊張きんちょうを必要とする。何が好きかわからない、何をやりたいかつかめないという状態を肯定こうていせず、むしろ否定的にとらえ、本当に好きなものを発見するという態度のなかでの、実験的一方法が、行動による偶然ぐうぜんを通じての自己発見というものだろうから。
 しかし、何が好きかわからないためにやむを得ずする行動を「好き」といってしまっては、短絡たんらくという以外いいようがない。これでは、「社会心理学」などでいう、集団的な反社会的行動への逃避とうひなどといわれてしまってもしかたない。
 また、たとえばサーフィン。これはやれば面白いだろうと思う。ゴルフだってやれば面白いだろうが、すこし違うちが かもしれない。両方やったことがないのだから、無責任な話だが、しかし板を手で持つ波乗りぐらいはしたことがある。波という自然の大きな、しかしじつに微妙びみょうなリズムに、己れの肉体のリズムがぴったり合一した時の快感、これにつきるのだと思う。ボートのエイトならエイトで、八人の漕ぎこ 手のオールさばきが、見事に水をとらえて、ふねと漕ぎこ 手と水との不思議な一体感のなかで陶酔とうすいする時、もっともスピードが出ている(これは体験だ)ということと似ていると思う。官能の喜びではある。この直接的な官能性はこたえられないということはあるだろう。サーフィンが流行る根底にはこれがあるわけだが、実際に流行るプロセスでは、その体験は一種の神話的雰囲気ふんいきというわくと化してしまっている。波の来ない海岸にサーファーが集まり、それどころか、シティ・サーファーとかいう始めか
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ら海岸に行く気はないのに、車の天井てんじょうにサーフ・ボードを乗せ、顔には日焼けクリーム(日焼け除けではない)を茶色に塗るぬ という流行は一体何なのであろうか。ここに軽薄けいはくな心理を見出すことはたやすい。わたしはここにむしろ軽いシニシズムがあると思う。官能の体験は淡いあわ 神話と化してそれにこの半分腐っくさ たような傲慢ごうまんで半ちくな自己韜晦とうかいとが結びついて、今日の「流行」の原型をみせているのである。

(小野二郎じろうの文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534