1ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れて見ればこんなふうに見えるんだろうな……という想像のなかでしか、ぼくの身体はその全体像をあらわさないと言っていいはずだ。2つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり「像」でしかありえないことになる。言いかえると、見るにしろ、触れるにしろ、ぼくらはじぶんの身体に関してはつねに部分的な経験しか可能ではないので、3そういうばらばらの身体知覚は、ある一つの想像的な「身体像」を繋ぎ目としてたがいにパッチワークのように繋がれることではじめて、あるまとまった身体として了解されるのだということだ。ぼくらが着る最初の服は、この意味で、「像」としてのからだの全体像なのだ。4そして、身体はその意味で想像の産物、解釈の産物でしかないからこそ、もろいもの、こわれやすいものなのだ。
だから、他人に怪訝そうな表情で全身嘗めるように見回されるだけで、じぶんの抱いている身体像はとたんに揺らいでしまう。5あるいは、異性の服装をするよう強制されるだけで、たちまちそういう自己解釈によって成り立っているじぶんの同一性は危うくなる。
そこでひとは、こうした「像」としての身体のもろさを補強するために、いろんな手段を編みだすことになる。6つまり、「わたし」というものの存在の輪郭を補強することで、じぶんのもろい存在が醸す不安をしずめようとする。そのために、たとえば皮膚感覚を活性化することで、見えない身体の輪郭を浮き彫りにしようとする。7熱い湯に浸かったり、冷水のシャワーを浴びたり、日光浴したり、スポーツで汗をかいたりする。あるいは、他人と身体を接触させたりする、あぐらを組む父親のふところに入る、異性と身体をふれあう……。
8なぜこういう行為が心地よいかというと、たとえばお風呂に入ったりシャワーを浴びたりすると、湯や水と皮膚との温度差によって皮膚が刺激され、皮膚感覚が覚醒させられる。ふだん見えない背中
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