a 長文 9.2週 ni
 イギリス人は犬をしつけることが上手である。わたしの家の前が英国大使館の公邸こうていで、三年ごとに交替こうたいするどの家族も、必ず犬をつれてくる。もう七、八家族かわったと思うが、来る犬来る犬が実に見事と言う他ないほどぎょうぎがよい。
 家の中で不必要にほえたてたり騒いさわ だりすることがないどころか主人と連れ立って散歩する時でも実におとなしい。よその犬と行き会っても、ほえもしなければ駆け寄るか よ こともしない。主人の傍らかたわ について前を見てただ黙々ともくもく 歩いていく。むろん引綱ひきづなくさりもなしである。
 これに比べるくら  と日本人の犬は、こちらが恥ずかしくは    なるほどめちゃめちゃである。跳びと かかったり、ほえたり、大きな犬の場合など主人が押さえるお   のに苦労する。犬に引かれて、小走りになる人も多い。狭いせま 道で犬をつれた日本人同士が出会う時がこれまた面白い。小さな弱そうな犬をつれた人は、横道にそれたり、引き返すことさえある。女の人などは、つれている小さな犬をかばって抱き上げだ あ 、足早に通りすぎて行くこともしばしばである。
中略ちゅうりゃく
 このようなはっきりした違いちが は一体何が原因げんいんなのだろうか。わたしの考えでは人間と動物のお互い たが の位置づけが、イギリス人と日本人ではまったく異なること  ことから出発していると思う。
 日本人は、犬、ねこそして馬のような家畜かちくを人間の完全な支配しはい下に位置するもの、人間に従属じゅうぞくする存在そんざいとはみなしていない。もちろんこのような動物を世話し、えさをやり、利用するために殺すというような外見的な面では日本とイギリスでもさほど目立つ相違そういはない。
 日本人にとって犬はそれ自体自由な自律じりつ的な存在そんざいなのである。日本人のペットとか家畜かちくという考えは、このようなお互い たが 独立どくりつした主体的な存在そんざいとしての人間と犬が交差したところに成立してい
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る。実際じっさいごく最近まで犬をつないでおくとか囲いに入れておくという習慣しゅうかんは日本にはなかった。犬はあたりを自由勝手に歩き回り残飯やごみをあさる。
 勝手口に現れるあらわ  犬にえさ与えあた ているうちに、いつのまにかうちの犬になることもしばしばであった。二けん以上の家で同じ犬をうちの犬だと思っていたなどということもあった。また犬は家の人の知らぬ間に、えんの下などで子供こどもを生む。これも犬の勝手である。ところが家人にとっては、いりもしない厄介やっかい者をしょい込む   こ ことは困るこま 。こんな場合に、犬を最も人通りの多い橋のたもとなどに捨てす に行くのだ。
 捨てるす  人は、いらぬ犬を自分の生活けんから遠ざけて、不必要なかかわりを絶つた ことだけが目的で、その犬を何も殺すことはないのである。人通りが多ければ、誰かだれ 仔犬こいぬ欲しいほ  人がいて、拾って行くかも知れない。事実、多くの家で犬を飼うか ようになるいきさつは、子供こどもが拾ってきたからしょうがなく、置いてしまったというのが多かった。
 イギリス人は家畜かちくとは人間が完全に支配しはいすべき、それ自身は自律じりつせいを持たない存在そんざいと考えている。犬は人間が人間のために利用する従属じゅうぞく的な存在そんざいであるから、ぎゃくに一切を面倒めんどう見る責任せきにんが人間にある。不要な犬や、回復かいふく難しいむずか  病気にかかった犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも支配しはい者としての人間が決めてやるべきだという考えに基づいもと  ている。
 だから日本人のように、犬を捨てす たりすると、人間としての責任せきにんをはたしていないと非難ひなんするのだ。従ってしたが  彼らかれ にとっては、犬を安楽死させることが正しい犬の扱いあつか 方となる。一口に言えば、徹底的てっていてきな人間中心的動物観なのである。何が残酷ざんこくで何が残酷ざんこくでないかは人間のきめることなのだ。だから一般いっぱんにヨーロッパ人の残酷ざんこくという考
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長文 9.2週 niのつづき
えは温血動物止まりなのである。
 そこで日本で犬が捨てす られるといって、犬のために悲しむイギリスの婦人ふじんも、大正エビは生きたまま熱湯に投げ込んな こ で料理するのが一番よいと言って平然としている。また食べるためでなく、楽しむために魚を釣るつ のも残酷ざんこくではないのだ。大きなカジキマグロと何時間も海の上で全力を尽くしつ  て戦うことは素晴らしいすば   スポーツなのであって、魚が苦しむだろうと考えないのも同じ理由である。
 もちろんイギリス人でも日本人でも、一般いっぱんの人はいま述べの たような動物観、生命観をはっきり意識いしきしているわけではない。聞けばいろいろと理屈りくつづけはするだろうが、人々を無意識むいしきに動かしている基本きほん的な価値かち体系たいけい枠組みわくぐ というものは、実は深くかくれているのである。
 日本の南極観測かんそく隊が、氷にとじ込めこ られてヘリコプターでやっと脱出だっしゅつした時、連れていった樺太からふと犬を置き去りにしてきたことがあった。この時も日本はむろん、外国からも非難ひなんの声があがった。
 隊員たちは、ただ可愛かわいがっていた犬たちを殺すにしのびなかったのである。だれも犬どもが翌年よくねんまで生きのびようとは考えなかった。それでも殺す気にはなれないのだ。ところがどうであろう。翌年よくねん観測かんそく隊が再びふたた 昭和基地きち訪れおとず たとき、二頭が生存せいぞんしていたのだ。殺さなくてよかったと隊員達は思ったに違いちが ない。人間本位、人間中心の家畜かちくの始末法とは違いちが 、ここでは日本人の動物処理しょり法の方が勝ったのである。少なくとも、犬の幸福を中心に考えればである。
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