a 長文 8.3週 ni
 国際こくさい人とは一体どんな人間のことなのか、わかっているようでわかりにくい。単に外国へ何度も行ったことがあるとか、西洋のマナーを身につけているとか、外国で知名度が高いなどということではないような気がする。また、外国語に堪能たんのうであるというだけでも国際こくさい人とは呼べよ ないだろう。
 わたしなりの考えでは、「外国人を相手に自分の考えを伝えたり心を通わせることのできる人」というようなものではないかと思っている。こう考えるとき、国際こくさい人たるべき最も大切な条件じょうけんとは何だろうか。それは多分、「論理ろんり的に思考し、それを論理ろんり的に表現ひょうげんする能力のうりょくを持つこと」ではないかと思う。言語、風俗ふうぞく習慣しゅうかんなどは国によって異なっこと  ていても、論理ろんりなるものは万国共通だからである。日本人の議論ぎろんベタは有名であるが、その原因げんいんは日本人がこの能力のうりょくに欠けているからだと思われる。
 なぜ、論理ろんり的思考の訓練が我が国わ くにでは十分にされていないのだろうか。やはり教育が真先に頭に浮かんう  で来てしまう。大学入試を目指して階段かいだん駆けか 上がるような小・中・高の学校教育、しかもその中で知識ちしき修得しゅうとく偏重へんちょうされているということ。このあたりに大きな原因げんいんがあるのではないか。
 アメリカの大学初年生を日本の学生と比べくら てみると、アメリカ学生の方が知識ちしき量でははるかに劣っおと ている。びっくりするほど無知であると言ってもよい。しかし論理ろんり的に考え表現ひょうげんし行動することにかけては、彼らかれ は十分な訓練を受けているから、精神せいしん的には成熟せいじゅくしていて、論争ろんそうになったりした場合には日本人学生はとても太刀打ちできない。一見アメリカの学校は生徒を自由に遊ばせているだけのように見えるが、そういった訓練はきちんとなされているのである。
 たとえば小学生の宿題として「ピューリタン(キリスト教の
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

宗派しゅうはの一つ)がアメリカに移住いじゅうしたころ服装ふくそうについて調べなさい」というようなものが出されるという。生徒はそれを調べるのに何をどんな順序じゅんじょで実行すればよいかをまず考える。そして、どこの図書館へ行けばよいのか、どんな本を読めばよいのか、どのようにしてその本を借出すのか、だれに聞けば有益ゆうえき情報じょうほうを得られるか、などを考えることになる。
 一方の日本では、受験勉強のために、生徒たちは知識ちしきやテクニックの修得しゅうとくばかりに追いまくられている。論理ろんり的思考のために適当てきとうと思われている数学でさえ、決まりきった幾ついく かの公式のうちからどれをどの場合にあてはめるかというだけのものになっていて、この意味では単なる暗記科目と化している。論理ろんり的思考の訓練はほとんど置き去りにされていると言えよう。
 それでは、論理ろんり的思考を育てるにはどうしたらよいだろうか。普通ふつうまず数学教育が頭に浮かぶう  が、これは一般いっぱんに信じられているほど効果こうか的とは思えない。数学は確かたし 論理ろんりの上に組み立てられているが、いわゆる論理ろんり的思考に最適さいてきの教材かどうか疑わしいうたが   わたしにはむしろ、「言葉」を大切にすることが最も効果こうか的なように思われる。言葉というものは人間の思考と深く結びついている。言葉は単なる思想の表現ひょうげんではない。言葉によって思考する、という意味では言葉が思想を形作るとさえ言える。思考と言葉とはほとんど区別の出来ないほどに一体化している。この意味で、論理ろんり的言葉を大事にするということは、論理ろんり的思考を大事にすることに等しい。
 このような観点から、国語教育を充実じゅうじつさせることが第一と思われる。洞察どうさつ力に恵まれめぐ  た日本人にとって意思の疎通そつうに言葉を必要としないことはしばしばある。しかし、我々われわれ国際こくさい人として生きようとする限りかぎ 論理ろんり的言葉から逃れのが られないことは明らかに思われる。
藤原ふじわら正彦まさひこ「数学者の言葉では」より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534