a 長文 7.4週 ni
 久助きゅうすけ君の身体のなかに漠然とばくぜん した悲しみがただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜のさきぶれのやみとが、地上でうまくとけあわないような、妙にみょう ちぐはぐな感じのひとときであった。
 久助きゅうすけ君のたましいは、長い悲しみの連鎖れんさのつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
 六月の日暮ひぐれの、微妙びみょうな、そして豊富ほうふな物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
 久助きゅうすけ君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
 すると遠いざわめきのなかに、一こえ山羊のなき声がまじったのをききとめた。久助きゅうすけ君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの山羊を、ひるま川上へつれていって、昆虫こんちゅうを追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、山羊はひとりで帰ってきたのだと確信かくしんをもって思った。
 久助きゅうすけ君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
 山羊は向こうからやってくる。
 久助きゅうすけ君にはほかのものは何もにはいらなかった。山羊の白いかれんな姿すがただけが、――山羊と自分の地点をつなぐ距離きょりだけがみえた。
 山羊は立ちどまっては川縁かわっぷちの草をすこしみ、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
 久助きゅうすけ君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
 山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
 久助きゅうすけ君はむねが熱くなり、なみだがにあふれ、ぽとぽとと落ちた。
 山羊はひとりで帰ってきたのだ。
 久助きゅうすけ君のむねに、今年になってからはじめての春がやってきたよ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

うな気がした。
 久助きゅうすけ君はもう、兵太郎へいたろう君が死んではいない、きっと帰ってくる、という確信かくしんを持っていたので、あまりおどろかなかった。
 教室にはいると、そこに――いつも兵太郎へいたろう君のいたところに、洋服に着かえた兵太郎へいたろう君が白くなった顔でにこにこしながら腰かけこし  ていた。
 久助きゅうすけ君は自分の席へついてランドセルをおろすと、を大きく開いたまま、兵太郎へいたろう君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、兵太郎へいたろう君といっしょに笑い出した。
 兵太郎へいたろう君は海峡かいきょうの向こうの親戚しんせきの家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ久助きゅうすけ君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。兵太郎へいたろう君は帰ってきたのだ。
 休憩きゅうけい時間に兵太郎へいたろう君が運動場へはだしでとび出していくのをまどからみたとき、久助きゅうすけ君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに尊くとうと 、美しく思われた。

(新美南吉なんきち「川」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534