1「そこをなんとか」という言い方はきわめてあいまいである。「そこ」とは何をさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま外国語に翻訳したら、まったく意味をなさないだろう。2いや、意訳しても通じまい。だいいち、意訳のしようがない。強いて説明するなら、「あなたはそのような理由で拒絶なさるが、その理由をもう一度考え直して、私の要求に応じてくださるまいか」とでも言うほかあるまい。
3しかし、外国人が理由をあげてたのみを断る場合は、「だから、私はあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない」という確固たる立場を表明しているわけで、したがって、もうそれ以上いくらたのんでも、応じてくれる余地はない。4相手の要求をいれる余地がないからこそ、当人は断ったのである。
ところが、日本人は義理人情にからまれて、どんなに明白な拒絶の理由があろうと、相手に熱心にたのまれたら、それをむげに断るのは、何か気がひけるように思ってしまう。5われわれはそれを「義理と人情」のせいにするが、もともと義理と人情とは、正反対の概念なのである。「義理」とは、正当な理のことであり、「人情」とは、その理を解きほぐす情を意味する。6このように、正反対のものを一緒にし、折衷して、日本人はそこに独特の判断領域を設定するのだ。それは、別言すれば「情状酌量」といってもよい。7つまり、一切のことがらは、それ自体完結しているのではなく、時と場合に応じて、伸縮自在の形をとっているわけである。
8だから、日本人のノーは、けっして絶対的な否定ではなく、その一部にイエスを含み、イエスは、その中にノーの要素をあわせ持っている。9「日本人の不可解な笑い」といわれるものは、その時その時の、こうした判断から生まれているように私には思われ
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