ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
たとえば、近所に鬼がわらのような顔の子がいて、「鬼の子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親が涙を流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを理解していないことが多い。
いじめている人間が、強いわけではない。抑圧されている人間は、いじめる相手を探しがちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由主義的)な雰囲気のあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、体制によっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
ときには、だれかをいじめているという、加害意識のないことも多い。その集団が、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。罪の意識なしに悪いことをするほど、困ったことはない。
それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした状況に強制されて、罪の意識なしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう過去をとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした状況のなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに劣らず、みじめなものだ。
とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。彼もしくは彼女が、存在しないように扱う。顔を合わさず、声をかわさず、存在自体を無視してしまう。これは、一種の精神的殺
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