a 長文 1.2週 ne
 そっ啄  たくの機という言葉がある。得がたい好機の意味で使われる。比喩ひゆであって、もとは、親鶏おやどりが、孵化ふかしようとしているたまごを外からつついてやる、それとたまごの中からから破ろやぶ うとするのとが、ぴったり呼吸こきゅうの合うことをいったもののようである。
 もし、たまご孵化ふかしようとしているのに親鶏おやどりのつつきが遅れれおく  ば、中でひな窒息ちっそくしてしまう。逆にぎゃく 、つつくのが早すぎれば、まだひなになる準備じゅんびのできていないのが生まれてくるわけで、これまた死んでしまうほかはない。
 早すぎずおそすぎず。まさにこのときというタイミングがそっ啄  たくの機である。
 自然の摂理せつりはおどろくほど精巧せいこうらしいから、ほかにもいろいろな形でそっ啄  たくの機に相当するものがあるに違いちが ないが、かえるたまごはもっとも劇的げきてきなものといってよかろう。
 われわれの頭に浮かぶう  考えも、その初めはいわばたまごのようなものである。そのままではひなにもならないし、飛ぶこともできない。温めてかえるのを待つ。
 時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけでもない。あまり長く放っておけばせっかくのたまご腐っくさ てしまう。また反対に、孵化ふかを急ぐようなことがあれば、未熟みじゅくらんとして生まれ、たちまち生命を失ってしまう。
 ちょうどよい時に、たまごを外からつついてやると、ひなになる。たんなる思いつきが、まとまった思考のひなとして生まれかわる。
 われわれはほとんど毎日のように、何かしら新しい考えのたまごを頭の中で生み落としている。ただそれを自覚しないだけである。これがりっぱな思考に育つのは、実際じっさいにごくまれな偶然ぐうぜんのように考えられている。
 たまごはおびただしく生まれているのに、適時てきじから破っやぶ てくれるきっかけに恵まれめぐ  ないために、孵化ふかすることなく、やみからやみ葬りほうむ 去られているのであろう。
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 逆にぎゃく 、外から適当てきとう刺激しげき訪れおとず て、破るやぶ べきたまごからがありさえすれば、孵化ふかが起こるのにと思われるときもすくなくなかろう。ところがそういう時に限っかぎ て、皮肉にも頭の中にちょうどその段階だんかいに達しているたまごがない、ということが多い。せっかく、ついばむ力が外から加わっているのに、こうしてむなしく機会を逸しいっ てしまうことになる。
 頭の中にたまごが温められていて、まさに孵化ふかしようとしているときなら、ほんのちょっとしたきっかけがあれば、それでひながかえる。この千に一番のかね合いが難しいむずか  。それでそっ啄  たくの機が偶然ぐうぜん符合ふごうのように思われるのである。古来、天来のみょう想、インスピレーション、霊感れいかんなどといわれてきたのも、それがいかに稀有けうのことであるかを物語っている。
 たとえ稀有けうだとしても、起こることは起こっているのである。人間ならだれしも霊感れいかんのきっかけの訪れおとず は受けるはずで、それをインスピレーションにするか、流れ星のようなものにしてしまうかの違いちが にすぎない。これには運ということもある。いくら努力してみても運命の女神がほほえみかけてくれなければ、着想というひなはかえらないであろうと思われる。もっともどんなに運命が味方してくれても、もとのたまごがないのでは話にならない。人事を尽くしつ  て天命を待つ。偶然ぐうぜん奇蹟きせきの起こるのを祈るいの 
 すこし話が神秘しんぴ的になってきた。もっと日常にちじょう的な次元で考えてみよう。
 何でもない人間と人間とが、たまたま知り合いになる。互いにたが  不思議な感銘かんめい与えあた 合って、それがきっかけになって、めいめいの人生がそれまでとは違っちが たものになるということがある。出会いである。一期一会だという。
 ほかの人たちとどれほど親しく交わっていても得られなかったものが、何気ない出会いで与えあた られる。ここにもそっ啄  たくの機が認めみと られる。われわれはそれと気付かずに、そういう偶然ぐうぜんを一生さがし求
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長文 1.2週 neのつづき
めつづけているのかもしれない。
 それにめぐり会えたとき、奇蹟きせきが起こるというわけだ。
 難解なんかいな本は一度ではよくわからない。それに絶望ぜつぼうしないで、くりかえし読んでいると、そのうちに理解りかいできるようになる。読書百へん意おのずから通ず。古人はそう教えた。思考も同じことで、初めから全体がはっきりすることはすくない。何度も何度も考えているうちに、自然に形をあらわしてくる。
 人間にとって価値かちのあることは、大体において、時間がかかる。即興そっきょうに生まれてすばらしいものもときにないではないが、まず普通ふつうはじっくり時間をかけたものでないと、長い生命をもちにくい。させておく。温めておく。そして、決定的瞬間しゅんかん訪れるおとず  のを待つ。そこでことはすべて一挙に解明かいめいされる。
 『論語ろんご』の冒頭ぼうとうにある一句いっく「学ビテ時ニこれヲ習フ、またよろこバシカラズヤ」も読書百へんと同じように考えることができるかもしれない。勉強したことを機会あるごとに復習ふくしゅうしていると、知識ちしきがおのずからほんものになって身につく。それが愉快ゆかいだというのである。学んで時にこれを習う、そっ啄  たくの機はいつやってくるかしれない、折にふれて立ち返ってみる必要がある、と教えているのであろうか。
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