a 長文 6.3週 na
 コオロギは「リーリー」と鳴くというけれど、「リーリー」と聞こえるのは人間の耳にそう聞こえるだけのことで、コオロギにはどう聞こえているのだろう、そんなことを小学生のころふと考えたことがあります。人間の耳とコオロギの「耳」の構造こうぞうはまるでちがったものでしょうから、少なくともコオロギが人間が聞いているのと同じように「リーリー」という音を聞いているという保証ほしょうはありません。そのように考えれば、同じ人間でも全く同じ耳はないのですから、わたしたちは個人こじん個人こじんで、少しずつちがった音を聞いているのかもしれません。ヨーロッパの人の耳には、あの美しいコオロギの鳴き声も雑音ざつおんとしてしか聞こえないという話もどこかで聞いたことがあります。聴覚ちょうかくのしくみが日本人とヨーロッパ人ではちがうというのです。
 先日ラジオで、東京ではアオマツムシが木の上でうるさいほど鳴いていて、他の虫の声が聞こえないほどだ、このアオマツムシは明治時代に中国から渡っわた てきた帰化昆虫こんちゅうで、どうも声がうるさすぎて味気ないというような話をしていました。それを聞きながら、横浜よこはまに住んでいるわたしは、どうしてその虫が横浜よこはまにはいないのだろうと不思議に思ったのですが、つい先ごろ、ぼんやりと庭に出て夕涼みゆうすず をしている時、妙にみょう 大きな声の虫が鳴いているのに気がつきました。何もこの声は今年初めて聞くようなめずらしいものではなく、今まで毎年秋の初めに聞いてきた声で、わたしは今までずっとそれをコオロギだと思ってきたのですが、ラジオの話を思い出して、ひょっとしたらこれがあのアオマツムシかもしれないぞと思ったのです。そうなると、やもたてもたまらず確かめたし  たくなって、懐中かいちゅう電灯を持って庭の木の葉の上を探しさが ました。そして一時間ほどの探索たんさくの末、わたしは今まで見たこともない緑色の虫が、緑色の葉の上で大声で鳴いているのを発見したのでした。それ以来、今まで少し声の大きなコオロギだなということぐらいしか考えず、むしろ秋を感じさせる虫の声として楽しく聞いていたその声が、急にうるさく感じられるようになってしまったのです。
 わたしたちは、実際じっさいの体験を通じていろいろな知識ちしきを身につけてゆくのだと、単純たんじゅんに考えています。コオロギの声を聞いて、コオロギという虫を知り、セミをつかまえて、セミという虫の形や色に
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ついて知るというように。けれども、実際じっさいには、自分自身の直接的ちょくせつてきな体験を通して得られる知識ちしきは案外少ないのです。むしろわたしたちは、他人から知識ちしき与えあた られることによって、自分の体験をはばの広いものにしていくといった方がよいでしょう。極端きょくたんな言い方をすれば、わたしたちは、知っているものしか見えないし、聞こえないのです。
 サッカーのルールについて何も知らずに、サッカーの試合を見ても、おそらく何もおもしろくないでしょう。そればかりか、何でボールを手に持って走らないのだろうとか、何でゴールキーパーをみんなで押さえお  てしまわないのだろうかとか考えてイライラするにちがいありません。手を使ってはいけないというルールがあるのだということを知っているからこそ、足で上手にボールをあやつる選手の姿すがたがすばらしいものに見えるのです。それを知らなければ、足だけで懸命けんめいにボールをけっている姿すがたはこっけいなものでしかありません。
 知識ちしき現実げんじつの見え方や感じ方を変えてしまう力を持っています。コオロギは日本に昔からいる虫だがアオマツムシは外国から渡っわた てきた虫だという知識ちしきが、コオロギの声はきれいだが、アオマツムシの声はうるさくて耐えがたいた    というふうに感じさせてしまいます。逆にぎゃく ゆかに落ちたステーキをそのまま皿に乗せて出されても、そのことを知らなければ、わたしたちは平気でそれを食べてしまうでしょう。「知らぬがほとけ」というわけです。
 現実げんじつの見え方や、それに対する感じ方を変えてしまうものは、知識ちしきだけではありません。習慣しゅうかんもその一つです。日本人とヨーロッパ人では聴覚ちょうかくのしくみがちがうという話も、考えようによっては、虫の声を楽しむという日本人の習慣しゅうかんが、日本人の耳を少しずつ変化させてきたのだとも言えるでしょう。
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