a 長文 6.2週 na
 インドではほうぼうの町角で自転車の修理しゅうり屋を見かけた。間口一間くらいの、新品自転車など一つも置いていない、寄せよ 集めの中古部品ばかりごたごた重なっている小さな店である。そこに持ちこまれるのも、いかにも実用品といった、さんざん使い古したしろものだ。そこでパンク直し、部品交換こうかんをし、また雑踏ざっとうの町中に走ってゆく。自転車はインドでは貴重きちょう品であり、日常にちじょう生活の重要な道具だから、そういう店はどこでもはやっていた。
 わたしは町中でそんな店を見かけると立止ってしばらく眺めなが 、なんだかとても懐かしいなつ   気がした。自転車だってあのころは大変役立つ交通機関で、みな荷台の大きな黒い実用品であった。わたしの父はよくそのうしろにリヤカーをつけ、材木だのセメントぶくろなどを仕事場に運んでいったものである。
 駅前広場には毎朝夥しいおびただ  数の自転車が乗りすてられていくが、大抵たいていはサイクリング用で、あの黒くて荷台のついたやぼったいやつなど一台も見かけない。子供こどもたちは変速ギアのついたしゃれたのを平気で公園に置き去りにしていく。インドの子供こどもらが見たら何と思うだろう。
 くつでも自転車でもタクシーでもバスでも、インドでは実際じっさい徹底的てっていてき修理しゅうり再生さいせいして、とことんまで使いきるらしかった。町中で新品にお目にかかるほうがめずらしかった。これは一言でいえば、日本が大量生産大量消費の工業国であり、インドが生産せい乏しいとぼ  貧しいまず  国だということなのだろうが、わたしは、両方を見くらべてなんだか釈然としゃくぜん しないのである。どっちかが間違っまちが ているように思えてならないのだ。
 限りかぎ ある地球上の資源しげんを、一方はとみにまかせて不必要に浪費ろうひし、一方はどんなものでもとことんまで使い切ろうとする。そういう点からばかりでなく、子供こどもたちの教育、心の問題としても、現在げんざいの日本のような経済けいざい力にまかせた浪費ろうひ習慣しゅうかんは、よい影響えいきょう与えるあた  とは考えにくい。
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 インドを一月ほど旅行しているあいだじゅうわたしが考えさせられたのは、人間は一体生きるために本当に何を必要とするか、ということだった。快適かいてきな生活の追求はしばしば贅沢ぜいたくいき接しせっ 、人間に本来の生の姿すがた忘れわす させるのではあるまいか。ともかく現代げんだい日本人がおごっているのは確かたし なようである。
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