1子供の世界は「ふしぎ」に満ちている。小さい子供は「なぜ」を連発して、大人にしかられたりする。しかし、大人にとってあたりまえのことは、子供にとってすべて「ふしぎ」と言っていいほどである。2「雨はなぜ降るの。」「せみはなぜ鳴くの。」あるいは、少し手がこんできて、飛行機は飛んで行くうちにだんだん小さくなっていくけど、中に乗っている人間はどうなるの、などというのもある。(中略)
3子供の「ふしぎ」に対して、大人は時に簡単に答えられるけれど、一緒になって「ふしぎだな。」とやっていると、自分の生活がそれまでより豊かになったり、面白くなったりする。
4子供は「ふしぎ」と思うことに対して、大人から教えてもらうことによって知識を吸収していくが、時に、自分なりに「ふしぎ」なことに対して自分なりの説明を考えつくときもある。5子供が「なぜ。」と聞いたとき、すぐに答えず、「なぜでしょうね。」と問い返すと、面白い答えが子供の側から出てくることもある。
「お母さん、せみはなぜミンミン鳴いてばかりいるの。」と子供が尋ねる。6「なぜ、鳴いてるんでしょうね。」と母親が応じると、「お母さん、お母さんと言って、せみが呼んでいるんだね。」と子供が答える。そして、自分の答えに満足して再度質問しない。これは、子供が自分で説明を考えたのだろうか。7それは単なる外的な説明だけではなく、何かあると「お母さん。」と呼びたくなる自分の気持ちもそこに込められているのではなかろうか。だからこそ、子供は自分の答えに納得したのではなかろうか。8そのときに、母親が「なぜって、せみはミンミンと鳴くものですよ。」とか、「せみは鳴くのが仕事なのよ。」とか、答えたとしても納得はしなかったであろう。9たとい(たとえと同じ)、せみの鳴き声はどうして出てくるかについて正しい知識を供給しても、同じことだったろう。そのときに、その子にとって納得のいく答えというものがある。そのときに、その人にとって納得がいく答えは、物語になるのではなかろうか。0せみの声を聞いて、「せみがお母さん、お母さんと呼んでいる。」というのは、すでに物語になっている。外的な現象と、子供の心の中に生じることが一つになって、物語に結晶している。
人類は言語を用い始めた最初から物語ることを始めたのではないだろうか。短い言語でも、それは人間の体験した「ふしぎ」、「おどろき」などを心に収めるために用いられたであろう。
古代ギリシャの時代に、人々は太陽が熱をもった球体であることを知っていた。しかしそれと同時に、彼らは太陽を四頭立ての金の
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