日本人はなにかというと人に贈りものをする。たいした意味がなくても、盆と暮れになると、中元、歳暮を贈らないと気がすまない。虚礼ではないか、やめてしまえ、という声がときおりおこるけれども、贈答はいっこうに減らない。われわれは贈りものをしないと落ち着かないようにできているのかもしれない。同じ日本人なら、同じような気持ちをもっているから、ときにおかしいと思う人がいても、贈ればだいたい受け取って、形だけにしても、ありがたかった、うれしかった、と礼を言ってくれる。
そういうことになれ切っていると、相手が外国人であっても、つい同じことをしてしまう。こちらが善意であれば、その気持ちだけはすくなくとも通じるだろうとのんきに考える。それがそうではないことがあるのだということは、苦い経験をしてからでないと、わからないからやっかいである。
たとえば、アメリカ人にとって日本式の贈りものがどういうように受け取られるか。これについてはこういうエピソードがある。
日本に住むあるアメリカ人が隣家の日本人の奥さんからある日、くだものをもらった。くれたのは奥さんだが、奥さんが買ってきたものではない。奥さんのところへ来た知り合いが奥さんに贈ったものだ。この知人はクルマで来て、そのアメリカ人の庭先へ駐車させてもらった。奥さんとアメリカ人との間で、必要なときには自由に使っていいという話のついている庭先である。しかし客は知らん顔ではまずいと思った。奥さんにもってきたくだものを、アメリカ人にあげてくれと頼んだ。奥さんにはまた別のものを考えると言うのであろう。奥さんは言われるままに、客が帰ったあと、くだものをもってアメリカ人のところへ来たのである。
ところがアメリカ人は喜ばない。どうしてくれるのかわからないのだ。やるといわれても、迷惑だと感じる。こちらがくだもの好きだとわかってくれたのではない、しかも、会ったこともない人からのくだものをどうして受け取れるか。相手はかまわず、そういうものをくれるのは、こちらの人間、個性を無視していて、おもしろくない。駐車させてもらってありがたいと思ったなら、なぜ本人がやってきて、ひとこと、ありがとう、と言ってくれないか。そのほ
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