1衰弱したアイデンティティのぎりぎりの補強、それを個人レベル、感覚レベルでみればたぶん「清潔願望」になる。2じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだけのもの、独自のものがあるのかどうか確信がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質なもの、それにちょっとでも接触することをすごく怖がる。3じぶんでないものに感染することでじぶんが崩れてしまう、そういう恐ろしさにがんじがらめになるのだ。じぶんのなかになんの根拠もないまま、じぶんの同一性を確保しようとするなら、〜ではないというかたちで、ネガティヴにじぶんを規定するしかない。4じぶんは女ではない、子どもではない、白人ではない、病気ではない……
そういうことすら不可能なとき、ぼくらはじぶんでないもの、他なるものの感染、あるいはそれとの接触を徹底して回避しようとする。5清潔症候群(シンドローム)というのも、まさにそういうコンテクストで現われてきたのではないだろうか。
六十代後半のさる高名な数学者が、かつてぼくにこんな話をしてくださったことがある。6その先生は、じぶんの娘がまだ高校生のころ、お父さんをとにかく汚いと感じていたらしく、いくら話しかけても殻に閉じこもって、とにかく父親とは音信不通という状態が長く続いたそうだ。7それが、結婚し子どもを産んだとたん、日常のこと、小説のことと、いろいろじぶんにしゃべりかけてきたという。読んでおもしろかった小説を交換したり、映画のはなしをしたりといろんなコミュニケーションの回路が開かれてきたとおっしゃるのだ。8これは、お嬢さんがご主人という他者と身体的な交感をもちはじめたこと、栄養摂取から排泄まで子どもの生理の全過程とつきあいだしたことと、無関係ではなかろうとおもう。9お嬢さんの場合、結婚を機に、透明のカプセルでじぶんの存在を他者から隔離することが不可能になったということが大きいとおもう。0他者を排除することによってではなく、他者との交錯、他者とのやりとりのただなかで、そのつどじぶんをかたどっていくというやりかたにいやがおうでも引き込まれていったのだ。
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