a 長文 9.1週 mi
 私は二十年ほど前から、人間は自らを飼育し、家畜かちく化――自己家畜かちく化していると述べ続けている。まず人間は、人間自身を飼育しているのではないか。女房にょうぼう亭主ていしゅが飼育されているなどの、たとえに使われるのと同じように感じられるかもしれないがまったく違うちが ヒトを生物の一種とみなした場合、個人レベルではなく、人間自身がつくった社会システムに依存いぞんして暮らしている点からである。飼育動物を例にして考えてみると、比較ひかく生態学的には否定する論拠ろんきょはない。飼育動物はそれなりにフリーに動いてはいるものの、少し大きな目で見ると人工的につくった場の中でフリーなのにすぎない。狭いせま おりの中で飼育されている場合と違っちが て、放飼場のついた飼育場で飼われていたらどうであろうか。どれほど大きな違いちが があるだろうか。毎日、自転車などでくさりにつながれて走っているイヌと、満員電車でゆられてオフィスに往復する人々との違いちが は、たまに寄り道するのと、自分の選んだ道(企業きぎょう体を含めふく )であるかの違いちが で大した差異はないとも言える。違いちが は社会的・文化的な面があるかどうかや、くさりが目に見える具体物かどうかであるとも言える。
 人間は自らを自らで飼育し、馴化じゅんかしている。自己飼育、自己馴化じゅんかである。人類学の教科書には、こうした説明が載せの られているものがある。一般いっぱんには、これは否定的で比喩ひゆ的にしかとらえられない。だれも自ら好んで飼育され、ならされていくことなどないと感ずるからである。だが、私がこれにこだわったのは、ここでいう自己とは個々の人間の行為こういの上での自己ではなく、ものごとの自己発展の上での自己である。人間というもののあり方が、自ら飼育していくという意味である。では飼育というのをどう考えるのかと問われれば、人類学上の定義はともかくも、動物にとっては食物を供給されることから始まる。動物が生きることは、まず生態学的・生物学的に食物をとることに尽きるつ  。動物の生活すべては、食物をとることが中心に営まれている。その成果にもとづいて繁殖はんしょくがなされる。
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 飼育とは、食物を供給され、さらに生活空間や場も与えあた られるといってよい。しかし、飼いならすというと通常、餌付けえづ から始まるのでわかるように、食物を自力でとらずに済む依存いぞんの暮らしが基盤きばんである。子供の時期は食物を供給されるが、自立するためには食物依存いぞんを断たねばならない。ライオンのような強力な捕食ほしょくじゅうにとっても、離乳りにゅうの後、自力で獲物えものをうまくとれるようになるまで、生き続けることはとても難しい。それだけに食物を供給されることは、まるで全生活の面倒めんどうを見てもらうのに等しい。
 人間として生活をしているヒトとしては、食物のとり方は食事だけではない。獲物えものをとる動物の場合になぞらえれば、漁業や農業その他、食物生産のすべてを個人でやらねばならなくなる。別の言い方をすれば、ヒトは社会システムに参加することによって、社会的に食物を供給されている。社会的に飼育されているとも言える。社会システムにせよ、食料生産のしくみもまた、人間がつくっているので、自己飼育・自己馴化じゅんかである。
 現在多くの人々は、若い人々や子供を見ていて、なにか大きな変化が人間の精神や行動に現れていると、漠然とばくぜん 感じているだろう。(中略)
 比喩ひゆとして言えば、現代の青年や子供は、座敷ざしきイヌと類似している。自己家畜かちく化が、特殊とくしゅな条件下で自己ペット化に至ったものと言えよう。さきに述べたように自己家畜かちく化は、「もの」や「人工的人為じんい的世界」の中で形質を決定づけている、基本的な人間のあり方である。したがって自己ペット化は、その自己家畜かちく化の管理・保護と人工化がより進んだ現代的な先進国での特殊とくしゅな状態だとみなせる。自己ペット化の場合には、自己家畜かちく化のような論理にもとづいたものであるよりも、状況じょうきょうを示す表現に力点が置かれた言い方である。自己家畜かちく化の特殊とくしゅな現代的あり方である。
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