1私は二十年ほど前から、人間は自らを飼育し、家畜化――自己家畜化していると述べ続けている。まず人間は、人間自身を飼育しているのではないか。女房に亭主が飼育されているなどの、たとえに使われるのと同じように感じられるかもしれないがまったく違う。2ヒトを生物の一種とみなした場合、個人レベルではなく、人間自身がつくった社会システムに依存して暮らしている点からである。飼育動物を例にして考えてみると、比較生態学的には否定する論拠はない。3飼育動物はそれなりにフリーに動いてはいるものの、少し大きな目で見ると人工的につくった場の中でフリーなのにすぎない。狭い檻の中で飼育されている場合と違って、放飼場のついた飼育場で飼われていたらどうであろうか。4どれほど大きな違いがあるだろうか。毎日、自転車などで鎖につながれて走っているイヌと、満員電車でゆられてオフィスに往復する人々との違いは、たまに寄り道するのと、自分の選んだ道(企業体を含め)であるかの違いで大した差異はないとも言える。5違いは社会的・文化的な面があるかどうかや、鎖が目に見える具体物かどうかであるとも言える。
人間は自らを自らで飼育し、馴化している。自己飼育、自己馴化である。人類学の教科書には、こうした説明が載せられているものがある。6一般には、これは否定的で比喩的にしかとらえられない。だれも自ら好んで飼育され、ならされていくことなどないと感ずるからである。だが、私がこれにこだわったのは、ここでいう自己とは個々の人間の行為の上での自己ではなく、ものごとの自己発展の上での自己である。7人間というもののあり方が、自ら飼育していくという意味である。では飼育というのをどう考えるのかと問われれば、人類学上の定義はともかくも、動物にとっては食物を供給されることから始まる。8動物が生きることは、まず生態学的・生物学的に食物をとることに尽きる。動物の生活すべては、食物をとることが中心に営まれている。その成果にもとづいて繁殖がなされる。
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