自分に友達のできないのは、口が重く、しゃべることが下手で、相手を引きつけたり、悦ばせたりできないからだと思っている人も少なくない。しかしこの種の人も、人間というものは、こちらの言うことなどをそんなに注意してきいているものではないと考えることによって、気持ちが楽にならないだろうか。何かすばらしいことを自分が言うと相手が期待していないだろうかと考えるために、ますます口が重くなる。だが、世のなかで、自分の言うことにいちばん耳を傾けているのは、ほかならぬ自分自身であることを知っておくのはむだではあるまい。何かつまらないことを言って笑われはしまいか、軽蔑されはしまいかと心配するのは、相手が自分の言葉に耳をすませているだろうと思っている一種の自惚である。こちらが不安と心配で胸をドキドキさせてしゃべっているときでも、別のことを考えているばあいが多いのである。まさにアランの言う「対象のない恐怖」であって、そんなことにくよくよするのは全く意味のないことである。
「自分を虫けらだと思っている者は人に踏みにじられる」という格言がフランスにあるが、他人から尊重されるには、まず自分で自分を尊重することが第一である。われながらつまらないヤツだと思っている人間に、他人が敬意を払うはずがあるまい。自分は人に好かれない人間だと思っているかぎり、自分を好いてくれる人はないだろう。人間というものは、いつも友達を欲しそうにして卑屈な愛想笑いをしている人間よりも、孤高の態度をくずさない人間に対して、むしろ友情を求めたがるものである。無益な劣等感を棄てるに越したことはない。
友達ができないことを嘆く人に次に問いたいことは、あなたは自分の周囲に何か冷たい空気を流していないだろうかということである。私がこれまでくり返し書いてきたように、友情というものは、まずこちらから何かを、しかも何らの報酬を期待することなしに与えることによって成り立つ。与えることが、無際限に与えること自体が悦びであるのが真の友情というものである。われわれの与えうるものには限度があるからである。そこに友人の選択が起こるのであるが、自分の選んだ人で、その人のためには何を与えても惜しくないという友人をもつことは至福ではないだろうか。
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