a 長文 8.1週 mi
 作曲に集中しているとき、不意に、音楽というものが、自分の知力や感覚では、捉えとら ようもない(神秘的な)ものに思われることがある。自分なりに、音楽が解ったような気がしていただけに、そんな時、私は、戸惑いとまど 焦りあせ の後の無力感に挫けくじ そうになってしまう。だがその無力感は、深刻な絶望とは異質な、むしろ居心地良さとぬくもりさえ感じられる「たぶんそれはなにか途方とほうもなく大きな」諦めあきら のようなものだ。こんな感情は、言葉ではとても伝え難い。私は待つしかない。期待ということではなく、己を空白にして音が私に語りかけてくるまで待つ。音をいじって私の考えで縛るしば ことから離れはな て、耳と心を全開にする。
 作曲という仕事は、どうしても音をいじり過ぎて、その音が本来どこから来たかというような痕跡こんせきまでも消し去ってしまう。方法論だけに厳格になると、ともすると音楽は紙の上だけの構築物になり空気の通わないものになる。例えば、ひとつの和音は、物理的波長の複雑な集束として、音響おんきょう学的には、殆どほとん 不変のものとして存在し、また規定し得るだろう。だが音楽という有機的な流れの中では、その(ひとつの和音の)響きひび は千変万化するもので、その表情の豊かさは、まるで、生きたもののようである。一般いっぱんに言われる、長和音は明るく、短和音は暗いというようなことがかならずしも正確でないのは、注意深く音楽(作品)を聴けき ば、容易に、理解されることである。
 ではなぜ、音は、恰もあたか 生きたもののようにその表情を変えるのだろう? 答えは、至極単純に違いちが ない。即ちすなわ 、音は、間違いまちが なく、生きものなのだ。そしてそれは、個体を有さない自然のようなものだ。風や水が、豊かで複雑な変化の様態を示すように、音は私たちの感性の受容度に応じて、豊かにも貧しくもなる。私は音をつかって作曲をするのではない。私は音と協同(コーオペレイト)するのだ。だが、私が、時に「作曲家として」無力感に捉えとら られるのは、私がまだ協同者「音」の言葉をうまく話せないからだ。
 先日、ある紙上に、高見順賞を授賞された吉田よしだ加南子さんの受賞
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挨拶あいさつが再録されていた。その中に、現在(いま)の私にはとても身近に感じられる言葉があった。手前勝手に引用させていただく。
 吉田よしださんは、詩人として歩んだこれまでを簡略に振り返っふ かえ たあとに、
 「私の意思だけではなく何か大きな力に働きかけられている。私はそれを受け止めなくてはならない。また、子供が遊ぶように詩を書くことが、仕事になって、生き生かされている。そうしたことを通してゆるしのようなものが与えあた られているのかもしれない」
 そう現在の心境を述べられ、さらに、
「私は本当は空とか海、木とか葉っぱにとってもお礼を言いたいんです。けれども、残念ながらまだ私は、空の言葉、海の言葉を話すことができません。ですから、そのためにこそ詩を書いてゆかなければならない」と、挨拶あいさつを結ばれている。
 この言葉に深い共感を抱いいだ た者として、なぜ、いまここにそれを引用したかを説明するのは、どうにも余分なことに思える。(中略)
 自然から学ぶことは余りにも多い。自然の(この地球の)記憶きおくの層の、深い、遥かはる な連なりを見出すのは、私のような者には、とても容易なことではないが、せめて季節毎の変化の相、その推移を感じとれる感受性を身につけたい。それは、私に、音が語りかけてくる毀れこわ やすい言葉の表情のいろいろを聴きき 逃がすに  ことがないように働きかけてくれるだろう。作曲は音と人間との協同作業(コラボレーション)だと思うから、作曲家は音に傲慢ごうまんであってはならないだろう。

(武満とおるの文章による)
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