1人間は他の人間と自由にまじわることができる。あるいは、まじわる相手を自由にえらぶことができる。学校の友だち、職場での友人、恋人、そして夫婦でさえも、それぞれの当事者の自由な選択によって成立している人間関係だ。
2相手方に誰をえらぶかは、ある意味では自由であり、べつな見方からすれば偶然である。ふとめぐりあい知り合った人びと――その人びととわたしたちはつきあって生きている。3仲よくなれば一生をつらぬいた、親しい友人関係をとりむすぶこともできようし、けんかをして、それでお互いふたたび顔をあわせない、といったようなことになるかもしれぬ。
4とりわけ、現代のように、都市化がすすみ、偶然性の高い社会では、人間関係は、ふと結ばれ、そしてふと消えてゆく一時的なものであることが多い。学校の友人にしても、それは卒業後数年間で、いつのまにかごぶさたになってしまう。5すくなくとも、そのような人間関係では「ごぶさた」がゆるされるのである。
しかし、そのように自由な人間関係のなかで、ひとつの例外がある。それは、血縁の関係、とりわけ親子の関係である。6友人だの隣人だの夫婦だのは、「えらぶ」ことができるが、親子関係だけは、「えらぶ」ものではない。人が生まれた瞬間に、親子の関係は宿命的にあたえられてしまっている。こればかりは、誰にも、どうにもならない。
7そのうえ、人間という動物は養育期間がながい。「親はなくても子は育つ」というのも真実だけれども、親がわりになるおとながいなければ人間の乳幼児は死んでしまう。そして、ふつうのばあい、子を育てるのは親である。8親子というのは、人間にとって、のっぴきならない関係なのだ。自由にみちあふれた現代の人間関係のなかで、親子だけはまったく別枠の関係なのである。そこでは人間関係一般についてのさまざまな原則はあてはまらない。9どんな社会、どんな時代にも、こうした特殊関係としての親子関係は生きつづけ、そのことによって、人類の歴史はつづりあわされてきた。そして、ついこのあいだまで、そういう親子関係は、ごく自然なものとして誰もがうけいれていた。
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