1わたしはかねてから昔の日本に形見分けという風俗のあったことを、ゆかしいことと思ってきた。死者の遺言で、あるいは跡取りの裁量で、死者の所有物をその思い出に生者に分かち与える。大抵は死者の日常使用していた道具や品物、着物などだが、もらった者はそれを大事にしながら死者の記憶を新たにする。2むろんそこに人間喜劇はあり、
形見分け初めて嫁の欲が知れ
泣きながら眼を見張る形見分け
といった面白い光景も見られるわけだが、ともかく遺贈してまた使うことのできる物がここにはあったのである。3着物はほどいて洗い張りし仕立て直せば、自分の身丈にあったものとして生き返る。硯のいいものなら世代から世代へ何百年でも伝承されうる。欅の長火鉢、頑丈な茶ダンス、桐のタンス、桑の針箱、文箱、小物入れといったものに、江戸人は買うとき「一生物」というつもりで思い切って金をかけた。4その代わりそれらの物は生涯の伴侶として大事に使いこまれて、物としての値打ちを増したのである。
わたしはそういう永続する物に囲まれていた彼らの生活を想像する。気に入ったいい品物というのは物であって物ではない。生活に欠くべからざる伴侶である。5それなしには生活の充足が得られないものだ。
だから大事に使いこみ、拭き、磨き、そうやって人間の使用のあとをのこすことで物としての価値が上がる。茶碗などの陶磁器だって博物館などのガラス戸の中に置かれていては死ぬのである。6大事に使うから輝きを増し、また使えば使うほどよくなるそういう品物だけをもつことを、彼らはよしとしたのだ。
それにくらべると現代のわれわれは物こそ彼らと比較にならぬくらいもっているが、はたしてそういう意味での生涯の伴侶となった物をいくつもっているだろう。7回りを見渡せば、われわれのも
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