a 長文 6.2週 ma2
 ある時、荘子そうし恵子けいしといっしょに川のほとりを散歩していた。恵子けいしはものしりで、議論が好きな人だった。二人が橋の上に来かかった時に、荘子そうしが言った。「魚が水面にでて、ゆうゆうとおよいでいる。あれが魚の楽しみというものだ。」
 すると恵子けいしは、たちまち反論した。「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずないじゃないか。」
 荘子そうしが言うには、「君はぼくじゃない。ぼくに魚の楽しみがわからないということがどうしてわかるのか。」
 恵子けいしはここぞと言った。「ぼくは君でない。だから、もちろん君のことはわからない。君は魚でない。だから君には魚の楽しみがわからない。どうだ、ぼくの論法は完全無欠だろう。」
 そこで荘子そうしが答えた。「ひとつ、議論の根元にたちもどってみようじゃないか。君がぼくに『君にどうして魚の楽しみがわかるか』ときいた時には、すでに君はぼくに魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。ぼくは橋の上で魚の楽しみがわかったのだ。」
 この話は禅問答ぜんもんどうに似ているが、実は大分ちがっている。ぜんは、いつも科学のとどかぬところへ話をもってゆくが、荘子そうし恵子けいしの問答は、科学の合理性と実証性に、かかわりをもっているという見方もできる。恵子けいしの論法の方が荘子そうしよりはるかに理路整然としているように見える。また、魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。しかし、私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子そうしの言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである。
 大ざっぱにいって、科学者のものの考え方は、次の両極端りょうきょくたんの間のどこかにある。一方の極端きょくたんは「実証されていない物事は一切、信じない。」という考え方であり、他の極端きょくたんは「存在しないことが実証されていないもの、起こり得ないことが証明されていないことは、どれも排除はいじょしない。」という考え方である。
 もしも、科学者の全部が、この両極端りょうきょくたんのどちらかに固執こしつしていたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモク
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リトスの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。それにもかかわらず、原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きぬ で自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到着とうちゃくし得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈きゅうくつすぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである。さればといって、実証的あるいは論理的に完全に否定し得ない事物は、とれも排除はいじょしないという立場が、あまりにも寛容かんようすぎることも明らかである。科学者は思考や実験の過程においてきびしい選択せんたくをしなければならない。いいかえれば、意識的・無意識的に、あらゆる可能性の中の大多数を排除はいじょするか、あるいは少なくとも一時、忘れなければならない。
(中略)
 今日の物理学者にとって最もわからないのは、素粒子そりゅうしなるものの正体である。とにかく、それが原子よりも、はるかに微小びしょうなものであることは確かだが、細かく見れば、やはり、それ自身としての構造がありそうに思われる。しかし実験によって、そういう細かいところを直接、見わけるのは不可能に近い。ひとつの素粒子そりゅうしをよく見ようとすれば、他の素粒子そりゅうしを、うんとそばまで近づけた時に、どういう反応を示すかを調べなければならない。ところが、実験的につかめるのは、反応の現場ではなく、ふたつの素粒子そりゅうしが近づく前と後だけである。
 こういう事情のもとでは、物理学者の考え方は、上述の両極端りょうきょくたんのどちらかに偏りかたよ やすい。ある人たちは、ふたつの素粒子そりゅうしが遠くはなれている状態だけを問題にすべきだという考え方、あるいは個々の素粒子そりゅうしの細かい構造など考えてみたってしようがないという態度を取る。私などは、これとは反対に、素粒子そりゅうしの構造は何らかの仕方で合理的に把握はあくできるだろうと信じて、ああでもない、こうでもないと思い悩んおも なや でいる。荘子そうしが魚の楽しみを知ったようには簡単にいかないが、いつかは素粒子そりゅうしの心を知ったといえる日がくるだろうと思っている。
(湯川秀樹ひでき『物質と思考』より)
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