a 長文 5.4週 ma2
 昔の人の脳と、いまの人の脳は、どう違うちが か。
 昔の人の骨と、いまの人の骨、これはどう違うちが か。私が現物について、いくらか知っているのは、骨のことでしかない。その骨から考えるなら、四、五万年前このかたの人類は、根本的にはいまの人と同じ骨をしている。だから、その頃  ころから現代まで、人は同じような脳をしていたに違いちが ない。そういう結論になる。
 それ以前の人は、どうか。それなら、人類学でいう旧人、すなわちネアンデルタール人のことになる。これはもう、いまの人とは、骨がはっきり違っちが ている。実際に旧人は、われわれとは、脳がかなり違っちが ていたのではないか。私はそう疑っている。
 では、旧人と、いまのわれわれ、すなわち新人は、どこが違うちが か。最大の違いちが は、新人におけるシンボル体系の存在と、その豊富さであろう。要するに、お金とかお守りとか、賭け事か ごととかバクチとか、科学とか宗教とか、芸術とか演劇とか、それ自体は実用に役に立たず、約束事で成立するもの、そういうものが、旧人にはあまりなかったと思われる。
 われわれが常識としているような種類の言語、これも旧人では欠けていたか、不十分だった可能性が高い。そう私は考えている。ことばは、シンボル体系の典型だからである。
 見てきたわけでもないのに、そんなことが、なぜわかるか。それは、それに関する遺物が、旧人の遺跡いせきからは出てこないからである。クロマニョン人、すなわち新人になると、突然とつぜん洞窟どうくつ壁画へきがが出てきたりする。あんな見事な絵は、私にはとうてい描けえが ない。あるいはお守りらしい、わけのわからぬ細工ものが出る。それが旧人だと、石で作った刃物はものの類ばかり。これは実用性が高い。道具を見るかぎり、ある程度以上古い時代の人たちは、たいへん実用的だったということになる。
 それでは面白くない。昔の人には、いまの人にないちょう能力でもなかったのか。それは、さまざまなマンガに描かえが れているから、そういうものを見てくださればいい。いまの人がちょうなんとかを好むのは、いつも思うのだが、自然への感受性を失ったからであろう。自然を見ていれば、それ自体がほとんどちょう能力に見える。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

よく考えてみれば、不思議なことばかりなのである。もしその具体例を、自分の経験から思いつけないとすれば、あなたはすでに自然への感覚をほとんど失っている。自然がもはや不思議とは思えなくなっているからである。
 さてそれが、同じ新人のなかでの昔の人といまの人、そのいちばん大きな違いちが であろう。自然の実在と、自然の不在。いまの人はおおかた人工環境かんきょうに住む。これはなんでもないようだが、人間の思考をすっかり変えてしまうはずである。そこには自然がない。あるのは、人の作ったものばかり。まわりがすべてそれなら、人はそれだけを考えるようになる。それしか、ない。
 そうなると、脳はどうなるか。わが世の春であろう。人工環境かんきょうとは、脳が作ったものだからである。脳は脳のなかに住む。それ以外のものは、邪魔じゃまだ。こうして、われわれ現代人の持つ脳は、脳のなかに置かれた脳、それだけになった。
 じつはそれは、脳だけではない。同じ新人でも、古い骨を見ると、ずいぶんと使い込んつか こ であることがわかる。たとえば噛むか ことに関係する部分は、昔の人では、たいへんよく発達している。それに比べて、現代人はほとんど「家畜かちく」といってもいいであろう。固いものなど、子どものころから噛まか ない。
 現代人は、水や食物を探しに行く必要はない。ただ冷蔵庫をのぞけばいい。したがって、そういうものの、自然の「ありか」に対する感覚はない。気温は調節されてしまう。だから身体が調節する必要はない。そうした生活でできあがるのが、われわれの脳である。それはきまりきった生活に慣れた、家畜かちくの脳であろう。
 人は多くの動物を家畜かちく化した。次はもちろん人間の番である。私は頭骨を二つ、机の上にいつも置いている。一つは野蛮やばん人のもので、もう一つは、家畜かちく人のものである。長いあいだ置いておくと、どうしても野蛮やばん人の骨のほうが、骨として見事だという気がしてくる。だから、私が贔屓ひいきするのは、野蛮やばんな脳である。私の感覚が、おそらく野蛮やばんなのであろう。

 (養老孟司たけし『脳のシワ』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534