a 長文 5.2週 ma2
 子どもとは何だろう。そして、子どもが大人になるとは、どういうことだろう。思うに、それはこうだ。子どもは、まだこの世の中のことをよく知らない。それがどんな原理で成り立っているのか、まだよくわかっていない。では、大人はわかっているのだろうか。ある程度は、そうだ。大人はわかっている。しかし、全面的にわかっているわけではない。むしろ、大人とは、世の中になれてしまって、わかっていないということを忘れてしまっているひとたちのことだ、とも言えるだろう。
 ソクラテスはかつてこんなことを言った。世の識者たちは、自分がだいじなことを知らないということに気づいていない。つまり、わかっていないということを忘れてしまっている。それに対して、自分は、知らないということを知っている。つまり、わかっていないということを忘れていない。この点で、世の識者たちよりも自分のほうがものごとがよくわかっている、と言えるだろう、と。
 「知らないということを知っている」ことを、「無知の知」という。知っていると思い込んおも こ でいるひとは、もう知ろうとしないだろうが、知らないとわかっているなら、なお知ろうとしつづけるだろう。知ることを求めつづけるこのありかたを「フィロソフィア」という。「フィロ」とは愛し求めることであり、「ソフィア」とは知ることである。つまり、「フィロソフィア」とは、知ることを愛し求めることを意味する。これが、哲学てつがくという言葉の語源だ。
 だとすれば、子どもはだれでも哲学てつがくをしているはずである。子どもは、たしかに、自分が知らないということを知っている。ただ、子どもはソクラテスとちがって、たいていの場合、大人たちもほんとうはわかっていないのに、わかっていないということがわからなくなってしまっているだけだ、ということを知らない。そして、「大人になれば自然にわかる。」とかなんとか言われ、わかっていないということがわからない大人になっていくのだ。
 大人だって、対人関係とか、世の中の不公平さとか、さまざまな問題を感じてはいる。しかし大人は、世の中で生きていくということの前提となっているようなことについて、疑問をもたない。子どもの問いは、その前提そのものに向けられているのだ。世界の存在や自分の存在、世の中そのものの成り立ちやしくみ、過去や未来の存在、宇宙の果てや時間の始まり、善悪の真の意味、などなど。こうしたすべてのことが、子どもにとっては問題である。
 子どもは、ときに、こうした疑問のいくつかを、大人に向けて発するだろう。だが、たいていの場合、大人は答えてはくれない。答えてくれないのは、問いの意味そのものが、大人には理解できないからである。かりに答えてくれたとしても、世の中で適用している
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たてまえを教えてくれるか、何だか知らないがそうなっているのだよ、と率直に無知を告白してくれるか、そんなところだろう。子どもは、問うてみても無駄むだな問いがあることをさとることになる。
 つまり、大人になるとは、ある種の問いが問いでなくなることなのである。だから、それを問いつづけるひとは、大人になってもまだ「子ども」だ。そして、その意味で「子ども」であるということは、そのまま、哲学てつがくをしている、ということなのである。

 (永井ながい均『子どものための哲学てつがく』による)
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