1「好奇心」という言葉は、おもしろい言葉である。それは読んで字のごとく、「奇を好む心」であるが、その「奇」というのは、変わったこと、つまり、日常の環境、自分がすっかり適応している環境、自分が馴れ親しんでいる環境と異質なもののことである。異質だからこそ、「奇」と感じられるのだ。
2ここでぼくは、あらためて生きるということの逆説的な構図を痛感せざるをえない。人間は生きるために環境に適応しなければならないのだが、ひとたび環境に適応してしまうと、こんどは環境にすっかり慣れてしまったということが、逆に生きるという実感を失わせてしまう。3つまり、生きるための刺激がなくなることで、生命の力がすっかり弛緩してしまうのだ。別言すれば、そのような無重力状態が、生きるためのエネルギーを吸いとってしまうわけである。4チンパンジーが退屈のあまり精神的な障害をきたすというのは、そうした生命力のまったき弛緩を意味しているのである。チンパンジーでさえそうなら、人間はなおのことである。したがって、好奇心とは、そうした生命力の弛緩に対するカンフル注射のごときものと考えてもよい。
5よく、都会には強い刺激がありすぎるという。けれど、右の事情を考えれば、それはきわめて当然のことといわなくてはならない。都会というのは、人間を自然から守る装置が幾重にも張りめぐらされている場所のことである。6だからディズモンド・モリスは現代の都会のことを「人間動物園」と呼んでいるのだ。動物園のように手厚く自然から、あるいは野性から保護されているからである。いきおい、都会に住む人間からは抵抗感が失われてゆく。7自然に対する抵抗感、すなわち適応への努力こそが生きる実感を人間に与えるのだが、それがなくなれば、人間は何かべつのものをそれに代えなければならない。そうしないと、チンパンジーのように退屈のあまり病気になったり、異常な行動をはじめたりして、あげくの果て、死んでしまいかねないからだ。8都会の刺激というのは、その代替物なのである。
これに対して、田舎ではそのような刺激を必要としない。なぜな
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