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 じつは私は二〇代前半まで、旅行好きというには程遠かった。身体を動かすことは大嫌いだいきら で、部屋にこもって音楽を聴いき たり本を読んだりするのを好む人間だった。旅らしいことといえば、東京から大分までの帰省を毎年三回ほどするくらいだった。
 ところが、大学院でフランス文学を勉強しはじめたころから、フランスに行ったことがないのでは話にならないという気になりはじめた。そこで、奨学しょうがく金を貯め、親にも援助えんじょしてもらって、一九七七年の三月、初めてフランスを訪れた。まだ成田空港は開港しておらず、パリもまだオルリー空港を使っていたころだ。格安料金の大韓航空だいかんこうくう機を利用して、ソウル、アンカレジ周りで二四時間以上かけてパリに行った。ついでに、ドイツ、オーストリア、イタリアにも足を伸ばすの  ことにした。
 そして、ヨーロッパでしばらく過ごすうち、フランスという国に関心を持つという以上に、旅行そのものに目覚めてしまったのだ。
 旅行の最大の楽しみ、それは「驚きおどろ 」と「うろたえ」だ。
 外国の観光地を見る。生活を見る。そこで行動して、人間に触れるふ  これまでと違っちが た価値観に遭遇そうぐうする。日本にいて予想していたのとまったく違うちが 光景、まったく違うちが 反応に出会う。そして、驚きおどろ 、うろたえる。
 日本人としては、それでもなお日本式の生活をしようとすることもある。だが、そうすればするほど、困った事態に陥るおちい だが、それがまた楽しい。それまで絶対的に真実と思っていたことが揺らぎゆ  、これまでの価値観が揺り動かさゆ うご  れる。
 最初の旅行でまず驚いおどろ たのは、道を歩くのは、きれいに着飾っきかざ た白人のパリジャンやパリジェンヌばかりではないということだった。そもそもパリは白人だけの都市ではなかった。私はモンパルナスの一つ星の安ホテルを基点にしてパリ見物をはじめたが、歩く場所によっては、目に入る人間の一〇〇パーセントが有色人種だということも珍しくめずら  なかった。地下鉄に乗っても、有色人種のほうが多いということがしばしばあった。しかも着飾っきかざ ている人は少ない。ジーンズに革ジャン姿が圧倒的あっとうてきに多い。日本で予想していたような上品な白人はめったに見かけない。
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 数日後、フォブール・サントノレを歩いた。日本でいえば銀座のようなところだ。そこで初めて頭の中で想像していたパリの光景に出会えた。エレガントなパリジェンヌがいた。
 そこで気がついた。貧乏びんぼう学生である私がほっつき歩いていたのは、貧しい地域だったのだ。そこには、貧しい白人や有色人種が多かった。フランスは階層社会だったというわけだ。しかも、すでにフランスにはアラブ系、アフリカ系の移住者が押し寄せお よ 、その人たちが新たな下層社会を作り上げていた。(中略)
 最初のヨーロッパ旅行で、私はこのような光景を見るうち、旅というものの楽しさを知ったのだ。そして、それが病みつきになり、その後、時間とお金に少し余裕よゆうができてからは毎年のように海外旅行に出かけた。
(中略)
 ときには異文化のなかにかつての日本と同じような光景を見かけて、人間の普遍ふへん性を痛感することもある。日本とまったく文化の異なるフランスでも、日本人と同じような反応にしばしば出会った。一九九四年には友人とラオスに行って、メコン川の川原でたこ揚げあ をして遊ぶ子供たちを見て、四〇年前、九州の片田舎の川原で遊んだ自分の姿が重なった。
 私は、旅行での様々な驚きおどろ やうろたえや失敗の経験を書き綴っつづ てきた。
 もちろん、この程度の旅で大旅行家などとはいえない。私はたかだか三〇ヵ国かこくを旅行したに過ぎない。私よりもたくさんの旅行をし、たくさんの経験をした人は多いだろう。
 だが、私は幸い、ほかの人よりも自由な仕事についていたため、勝手気ままにあちこちを動き回ることができた。冷戦時代の東欧とうおうヵ国かこく含むふく 六〇日間の新婚しんこん旅行、朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)旅行、カンボジア旅行などにも出かけることができた。しかも、好奇こうき旺盛おうせいで、なおかつおっちょこちょいときているので、あちこちで少々危険な目にあった。そして、そのおかげで、自分の目でその時代その時代の社会を見て、様々な経験をし、驚きおどろ 、うろたえることができた。今となっては、これは私の財産といえるものだ。
 (樋口ひぐち裕一ゆういち『旅のハプニングから思考力をつける!』)
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