a 長文 5.3週 ma
 話し上手の人がいます。しかし、その人をおしゃべりとは呼ばないでしょう。そのことを私なりに考えてみますと、饒舌じょうぜつの人は、とかく「」をとることに気が回らなかったり、「間」の必要を感じていない場合が多いのに対して、話し上手とよばれる人は、意識して、あるいは無意識のうちに、うまく「間」をとり入れている違いちが があるように思います。
 「旅は道づれ」と言いながら、おしゃべりの人といっしょの長旅には疲れるつか  という人は少なくないでしょう。
 また、相手とのあいだの沈黙ちんもくの時間に耐えがたくた    て、「サーヴィス」の気持ちから何とかおしゃべりして「間を持たせる」というときも確かにあります。
 相手が何と思おうとわたしゃ知らぬとばかり構えて口を閉じていられる人はいいのですけれど、心遣いこころづか がこまやかであると、とかくこういう場合、口数が多くなります。
 しかし、困るのは、「サーヴィス」のつもりがいつのまにか自己弁護や自己顕示けんじになり、果ては自己陶酔とうすいになっているのにも気づかずという場合です。
 いかなる名言、名文句も、同類のものがただすきまもなく積み重ねられるだけでは効果乏しくとぼ  、文章の力みも、ただそればかりでは弱みに転じてしまうのは苦い教えです。
 適宜てきぎ、風を吹かふ せながらの饒舌じょうぜつであれば、聞き逃さのが れることも少なく、風のあいだに相手が連想し想像し思考する余裕よゆう与えあた ておいて、更にさら たたみかけるのもいいでしょう。風も通さない饒舌じょうぜつは、聞いているほうも苦しくなり、終わった時には、さて、何を聞いたのかということにもなりかねません。
 余韻よいんとか余情、ふくみ、それらはすべて、「間」のいかし方にかかわっているように思われます。思わせぶりな「間」は、いい余韻よいんにも余情にもならないでしょう。とすると、自然に「間」を必要とするのは、必要とするだけの実質をそなえているもの、ということになるのでしょうか。
 荻須おぎす高徳たかのりのパリの風景画で、忘れられない油彩ゆさいがあります。号数を正確には言えません。たたみ三分の一じょうくらいと思ってくださ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

い。空も建物も道もうす暗いパリの町角。ただ一点、遠景のとうらしきものにしゅが入っていて、そこに向かって画面が収斂しゅうれんされていくのです。
 「間」のことを思う時に、私はよくこの朱色しゅいろを見ています。

(竹西寛子ひろこ『国語の時間』による)
饒舌じょうぜつ…多弁なこと。おしゃべり。
自己陶酔とうすい…自分自身にうっとりすること。
適宜てきぎ…その場合・状況じょうきょうにぴったり合っていること。
荻須おぎす高徳(一九〇一〜一九八六)…洋画家。
号数…絵画作品の大きさを示すのに用いる番号。
収斂しゅうれん…一点に集まること。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534