a 長文 4.3週 ma
 いつから世の中が矛盾むじゅん恐れるおそ  ようになったのか知らないが、頭から悪いものと決めてかかっている人が多い。白が黒であって、空腹のときはものを食わない、などという話が横行してもはた迷惑  めいわくであろうが、雨が降れば天気が悪いといった理に合いすぎた命題でいっぱいになってもことである。
 どうも、矛盾むじゅんには、良いものと悪いものがあって、嫌わきら れる、いわゆる矛盾むじゅんは、良いものを除外して考えているようである。劇薬には病気を治すものがたくさんあるが、不用意に使えば命とりになりかねない。どれもこれも毒として敬遠した方が安全である、というのにいくらか似たところがある。
 同じ平面の上を、反対方向から進んで来た二つの同じ力がぶつかれば、両者は互いにたが  相殺そうさいし合って、運動のエネルギーは消滅しょうめつしてしまう。避けさ なくてはならない矛盾むじゅんとはこの相殺の論理のことであろう。数学的に言えば、プラスとマイナスの和である。プラス5とマイナス5を加えるとゼロになる。無為むい無能の状態である。こういう結果を招くような対立と矛盾むじゅんがつまらぬものであるのははっきりしている。
 こうして、一度、矛盾むじゅんが不毛だと知れると、われもわれもと論理性へ走る。かくして、論理はかくれた信仰しんこうの一つにすらなっていると言えそうである。
 論理が前提としているのは、同一次元での一貫いっかん性のある連続である。飛躍ひやくはいけない。テーマの錯乱さくらんもこまる。一筋に論理の糸がつながっているのが純粋じゅんすいで、美しいと感じられる。これなら、対立や撞着どうちゃくもしのびこむ余地がなくて安心である。
 しかし、このように戦々恐々せんせんきょうきょうとして一筋を守らなくては乱れてしまうのであるとしたら、いわゆる論理とは何と貧寒なものだろう。論理的一貫いっかん性とは、裏返してみれば、同類同質的なものがねこの子一ぴきも通さぬような近接状態で数珠つなぎじゅず   に並んでいることにすぎないではないか。
 人々は、しかし、いわゆる論理なるものが塩の入らぬしるこのように間の抜けぬ たものであることを直観で感じてはいる。口に出し
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て言うのをはばかっているにすぎない。芸術では、この単純な合理にいろいろと仮名をつけて、そっとお引き取り願っている。この平面論理という暴れんぼう踏み込まふ こ れたら、いかなる芸術の花も台なしになってしまうからである。詩における理屈りくつはその一例であるにすぎない。月並みの句などということばは、かすかな平面的連続を敏感びんかんにかぎつけて、それを嫌っきら たものと見ることができる。

外山滋比古とやましげひこ「省略の文学」から)
撞着どうちゃく…前後が食い違っく ちが てつじつまが合わないこと
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