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 以前、わたしは政府の国語審議しんぎ会の委員を三期つとめたことがある。そこでの大きな課題の一つは、敬語けいごの表現をどう考えるかであった。敬語けいごが日本語にはたくさんあって、複雑で、外国人泣かせであることは、よく知られている。
 もちろん外国語にも、相手を尊敬そんけいした表現はたくさんあって、日本語だけのものではない。委員のなかには「敬語けいごは日本語独自の美風だ」などと言う人がいて、わたしはぎょう天した。
 じつはつい最近、わたしはヨーロッパの小旅行の途中とちゅう、バスの座席ざせき幼子おさなご座らすわ せようとして、父親が「プリーズシットダウン」というのを小耳にはさんで、気持よかった。ただ「シットダウン」だけでもいいのに。
 また、上等な人ほど表現は丁ねいである。人にものをたのむときも遠回しに言い、プリーズばかりか「for me」を加えたりする。
 だから日本語に敬語けいごが目立つというのは人種が上等なだけだ(!)。
 さてその上等ぶりは、どんな内容なのか、いろいろあるなかでまずとり上げるものとして、「〜させていただく」という言い方がある。「どうぞ、どうぞ」と椅子いすをすすめられると「ありがとうございます。座らすわ せていただきます」と言う。「じゃ座りすわ ます」などとは言わない。
 「いっしょに帰りませんか」。「はい、おともをさせていただきます」。要するにこれは相手の行動によって自分がそうさせてもらうという意味だ。自分を椅子いす座らすわ せるのも相手。相手といっしょに帰っても、対等に行動をともにしているのではなくて、相手は自分をともとして従えるしたが  そのように自分をさせる、と考えるのである。
 あくまでも相手が主で、自分はそれに従っしたが ているにすぎない。
 これは、自分から進んでやるばあいでもそうだ。「本日司会をつとめさせていただきます田中です」と言って、司会は自分から口を切る。とつぜん客席から声があがって「つとめさせたのはだれだ」と聞くわけでもない。みんな当然のように聞いている。
 いや、いちいち聞きさえもしないほど、あたりまえの表現であろ
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う。つまり、それほど相手をたてるのが日本語だということになる。先ほどから問題にしている高級さとか上等さとかの中身は、じつはこの相手への尊重そんちょうであった。
 そこで念のためだが、相手への尊重そんちょうを、封建ほうけん的なものとか、階級意識とかと誤解ごかいしては困るこま 
 そもそも日本語の敬語けいごは、最初は親愛の気持をあらわす方法だった。八世紀のころはそうである。
 それがやがて敬愛けいあいの気持をあらわすようになり、やがて尊敬そんけいの気持の表現となった。
 そのうえでも、尊敬そんけいするかどうかは個人の自由だから、階級と見合うものではなかったが、一部で階級と敬語けいご一致いっちしてしまった。
 そのばあいでも、心のなかで尊敬そんけいしてもいないのに敬語けいごを使うと、それこそ、いんぎん無礼になる。
 だからあくまでも敬語けいごは相手を愛する気持の表現方法なのだ。愛は尊敬そんけいがなくては生じない。尊敬そんけいの気持のない愛があったら、お目にかかりたい。それがごく自然に出ているのが本来の敬語けいご、さっき親愛をあらわすといったものだ。
 だからそもそもの敬語けいごは女性に対して発せられた。そもそも日本人の女性のあつかいは、愛と尊敬そんけいにみちていたのである。

 (中西進『日本人の忘れものわす   』(ウェッジ))
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