1先ごろ世間で流行した「ノウと言えない日本人」は、日本人ならだれでも思いあたる節があって、広く話題になった。もちろん、くやしい。しかし仕方がない。それこそ、こうバカにされても、「ノウ」と言えなかったのである。2だから、この納得と反発をたくみについて、「ノウ」と言える人物として、新しい都知事が選挙戦をたたかい、みごと圧勝した。
日本人はそれほど「ノウ」と言えないから、「ノウ」と言う人は勇気があるとされる。3「ノウあるタカ」というジョークも聞かれた。
しかし、考えてみると、何事にせよ、イエスかノウかはごくごく基本の判断だから、内容によってもっとも単純に下されるはずのものだ。4それなのに、「ノウ」と言う人が勇敢な人だというのは、とてもおかしい。無心な赤ちゃんがイヤイヤをすると勇敢だなどということにはならないから、イエス・ノウがはっきりしている人は、もしかしたら、赤ちゃんに近い人かもしれない。5そうであるにもかかわらず「日本人は『ノウ』となかなか言えない」という命題は、今日も生きつづけている。日本人の生き方の、ごくごく根幹にある、大きな問題らしい。
そこでおもしろいことを思い出す。
6もう五十年以上前になったが、第二次世界大戦でシンガポールを陥落に追いこんだ日本の山下奉文大将がイギリスのパーシバル将軍と停戦協定を結ぼうとしたときに、大将は将軍にむかって、「イエス」か「ノウ」かと大喝したという。
7戦争中、もてはやされた武勇伝だった。この話は絶対に優位にたった人間が相手に判断をうながすとき、いっさいのあいまいで情緒的なことは考慮の外において、明快に答えを要求した、という話である。
8もしイエス・ノウをはっきりさせるというのなら、いつも複雑な心の動きを捨てることになる。将軍がイエスと言えば力に屈して言ったのだし、ノウと言えば力に反抗して言ったことになる。9明快なイエス・ノウは力の関係から出てくるらしい。反対に、あいまいにイエスでもノウでもない答えは、心がちらつく加減から発せられるらしい。
日常生活でもそうだ。たとえば借金を申し込まれる。ニベもなく
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