a 長文 12.2週 hu2
 先ごろ世間で流行した「ノウと言えない日本人」は、日本人ならだれでも思いあたる節があって、広く話題になった。もちろん、くやしい。しかし仕方がない。それこそ、こうバカにされても、「ノウ」と言えなかったのである。だから、この納得なっとくと反発をたくみについて、「ノウ」と言える人物として、新しい都知事が選挙戦をたたかい、みごと圧勝した。
 日本人はそれほど「ノウ」と言えないから、「ノウ」と言う人は勇気があるとされる。「ノウあるタカ」というジョークも聞かれた。
 しかし、考えてみると、何事にせよ、イエスかノウかはごくごく基本の判断だから、内容によってもっとも単純たんじゅんに下されるはずのものだ。それなのに、「ノウ」と言う人が勇敢ゆうかんな人だというのは、とてもおかしい。無心な赤ちゃんがイヤイヤをすると勇敢ゆうかんだなどということにはならないから、イエス・ノウがはっきりしている人は、もしかしたら、赤ちゃんに近い人かもしれない。そうであるにもかかわらず「日本人は『ノウ』となかなか言えない」という命題は、今日も生きつづけている。日本人の生き方の、ごくごく根幹にある、大きな問題らしい。
 そこでおもしろいことを思い出す。
 もう五十年以上前になったが、第二次世界大戦でシンガポールを陥落かんらくに追いこんだ日本の山下奉文ともゆき大将たいしょうがイギリスのパーシバル将軍しょうぐんと停戦協定を結ぼうとしたときに、大将たいしょう将軍しょうぐんにむかって、「イエス」か「ノウ」かと大喝だいかつしたという。
 戦争中、もてはやされた武勇伝だった。この話は絶対に優位ゆういにたった人間が相手に判断をうながすとき、いっさいのあいまいで情緒じょうちょ的なことは考慮こうりょの外において、明快に答えを要求した、という話である。
 もしイエス・ノウをはっきりさせるというのなら、いつも複雑な心の動きを捨てるす  ことになる。将軍しょうぐんがイエスと言えば力に屈しくっ て言ったのだし、ノウと言えば力に反抗はんこうして言ったことになる。明快なイエス・ノウは力の関係から出てくるらしい。反対に、あいまいにイエスでもノウでもない答えは、心がちらつく加減から発せられるらしい。
 日常生活でもそうだ。たとえば借金を申し込まもう こ れる。ニベもなく
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「断る。」と言えるのは相手が絶対に弱いときだ。そこを、「この人も困っこま ているだろうナ。」などと考えはじめると、貸したくもないのに、ついつい「いやです。」とはすぐに言えずに、グダグダ言いはじめてなかなか「ノウ」とは言えない。アメリカに対して日本が「ノウ」と言えない関係も、第一に力の大きさが違いちが すぎることがあるが、日本人は「アメリカが日本が断ることで困っこま てしまうのではないか。」などと考えて、すくには「ノウ」と言えない。そうなると、イエス・ノウをはっきりさせるというのは、明快というよりごく単純たんじゅんな表現だというべきだろう。イエス・ノウという単純たんじゅんな二極分類は、判断が浅いにすぎない。
 むしろ、すぐに「ノウ」と言わない日本人の伝統的な表現は、相手の立場も十分考え、単純たんじゅんな力関係でイエス・ノウを判定することをせず、イエスとノウという両極の間の程よい位置を見定めようとする態度ではないのか。イエスとノウとの間には、じつはたいへんな距離きょりがある。その間のどこで答えを出すか、それを考えることこそが、いま大切なのだ。
 これをイエスでもない、ノウでもない「第三の返事」と呼んよ でおこう。熟考じゅっこうのうえだから聡明そうめいな返事だ。ウンウンかイヤイヤではないのだから、成熟せいじゅくした大人の返事だ。ただ、あいまいだと受けとられると困るこま 。自分が何を考えているか、相手にはっきり言う必要がある。熟慮じゅくりょが十分伝わらなければ意味がない。
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