a 長文 11.4週 hu2
 簡単かんたんにいえば、「義」とは、打算や損得のない人としての正しい道、つまり「正義」である。「道義」「節義」の意味もこれにあたる。
 新渡戸にとべ博士がいうように、なんと厳しいきび  おきて」であるか。なぜなら、簡単かんたんに「人としての正しい道」といっても、それは個人的な観念であり、いわば「道徳」である。実行しなければばっせられるといった「法律ほうりつ」とは違うちが 法律ほうりつならば「してはいけないこと」が法文化されていて明確にわかるが、自己じこの観念にもとづく道徳は人間の内面に据えす られた「良心のおきて」であり、その基準は個人によって違うちが からである。
 道徳(モラル)と法律ほうりつ(ルール)の本質的な違いちが は、道徳は良心のおきてである以上「不変」なものだが、法律ほうりつは社会の都合で「変化」させることができるもの、とされている。
 たとえば交通法規などは社会の都合にともなって、それに即応そくおうしたものに変えられるが、「うそをつくな」「弱い者をいじめるな」といった良心のおきては、いかに社会が変わろうとも変わるものではないからだ。
 では、良心のおきてとされる普遍ふへん的な道徳とは何か。一般いっぱんにはそれが儒教じゅきょうのいう「五常」、すなわち「・義・礼・・信」とされている。簡単かんたんにいえば、その基本は先に少し触れふ たように、「人に優しくやさ  あれ」「正直であれ(うそをつくな)」「約束を守れ」「弱い者をいじめるな」「卑怯ひきょうなことをするな」「人に迷惑めいわくをかけるな」などがあげられ、人が人として行なわなければならない良心のことだ。だから、これらを犯すとき、われわれは「良心の呵責かしゃく」に襲わおそ れるのである。
 キリスト教ではこの良心のおきてを「神の声」としているが、儒教じゅきょうは神を語らない。それに代るものとして「天」を置いた。儒教じゅきょうを学んだ武士も、その良心の相手を「天」となし、天が見ているものとして守ったのである。そのことを示す有名な言葉が、
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老子の「天網恢恢疎てんもうかいかいそにして漏らさも  ず」(天道は厳正げんせいで悪事には早晩そうばんかならず悪の報いがあるとの意)である。要するに武士道では、個人の道徳りつ人倫じんりんの道として、現実社会の法律ほうりつ超越ちょうえつした「天道」に従うしたが ことが義務づけられたのである。
 ところで、ここが重要なところだが、武士道は「五常」の中でも、とくに「義」を最高の支柱に置いている。
 なぜか。その理由の第一は「人としての正しい道」である「義」が、他の徳目とくらべてみて、もっとも難しいむずか  ものだからである。というのも、この「義」は武士のみならず、いかなる人間においても、どのような社会にあっても人の世の基本であるからだ。この「義」(正義)が守られなければ平穏へいおんな社会は築けない。これは現在の社会とて変るものではない。歌の文句ではないが、「義理(正義)がすたれば、この世はやみ」である。
 それゆえにこそ為政者いせいしゃ側の武士は、江戸えど時代あたりから軍人的性格より行政官としての任務をもつようになると、「庶民しょみんの手本」となることが要求され、「義」を美学として生きることが義務づけられたのである。武士道では徹底的てっていてきに、何が正しいかの「義の精神」を教え、彼らかれ の行動判断の基準をこの「義」と定め、その行動の中に「義」があるかないかを常に問われたのである。

 (岬龍一郎『日本人の品格』〈PHP文庫〉)
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