1簡単にいえば、「義」とは、打算や損得のない人としての正しい道、つまり「正義」である。「道義」「節義」の意味もこれにあたる。
新渡戸博士がいうように、なんと厳しい「掟」であるか。なぜなら、簡単に「人としての正しい道」といっても、それは個人的な観念であり、いわば「道徳」である。実行しなければ罰せられるといった「法律」とは違う。2法律ならば「してはいけないこと」が法文化されていて明確にわかるが、自己の観念にもとづく道徳は人間の内面に据えられた「良心の掟」であり、その基準は個人によって違うからである。
3道徳(モラル)と法律(ルール)の本質的な違いは、道徳は良心の掟である以上「不変」なものだが、法律は社会の都合で「変化」させることができるもの、とされている。
4たとえば交通法規などは社会の都合にともなって、それに即応したものに変えられるが、「嘘をつくな」「弱い者をいじめるな」といった良心の掟は、いかに社会が変わろうとも変わるものではないからだ。
5では、良心の掟とされる普遍的な道徳とは何か。一般にはそれが儒教のいう「五常」、すなわち「仁・義・礼・智・信」とされている。6簡単にいえば、その基本は先に少し触れたように、「人に優しくあれ」「正直であれ(嘘をつくな)」「約束を守れ」「弱い者をいじめるな」「卑怯なことをするな」「人に迷惑をかけるな」などがあげられ、人が人として行なわなければならない良心のことだ。だから、これらを犯すとき、われわれは「良心の呵責」に襲われるのである。
7キリスト教ではこの良心の掟を「神の声」としているが、儒教は神を語らない。それに代るものとして「天」を置いた。儒教を学んだ武士も、その良心の相手を「天」となし、天が見ているものとして守ったのである。8そのことを示す有名な言葉が、
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