a 長文 11.2週 hu2
 価値かちが変動し、混乱こんらんしていくなかで、健康な体というのは、ひとつのよりどころにはなるでしょうが、健康な体、たくましい体だけがあればいいのかといえば、そうではないことは当然です。
 前にC・W・ニコルさんから南極かどこかへ探検たんけんに行ったときの話を聞いたことがあるのですが、かれはこんなことを言っていました。
 南極などの極地では、長いあいだテントを張って、くる日もくる日も風と雪と氷のなかで、じっと我慢がまんして待たなければいけないときがある。そういうときに、どういうタイプの連中がいちばん辛抱しんぼうづよく、最後まで自分を見失わずに耐えた ぬけたか。ニコルさんに言わせると、それは必ずしも頑健がんけんな体をもった、いわゆる男らしい男といわれるタイプの人ではなかったそうです。
 たとえば、南極でテント生活をしていると、どうしても人間は無精になるし、そういうところでは体裁ていさいをかまう必要がないから、身だしなみなどということはほとんど考えなくてもいいわけです。にもかかわらず、なかには、きちんと朝起きると顔を洗っあら てひげをり、一応、服装ふくそうをととのえてかみもなでつけ、顔をあわせると「おはよう」とあいさつし、物を食べるときには「いただきます」と言う人もいる。こういう社会的なマナーを身につけた人が意外にしぶとく強く、厳しいきび  生活環境かんきょうのなかで最後まで弱音を吐かは なかった、というわけです。これはおもしろい話だと思います。
 礼儀れいぎ、身だしなみ、こういうことは極限状態のなかでは最後に考えることのような気がします。しかし実際には、そういうなかで顔をあわせたときにきちんと「おはよう」とあいさつのできるような人、「ありがとう」と言えるような人、あるいは朝、ほんのわずかな水で顔を洗いあら 、ひげもって、それなりに服装ふくそうをととのえ、そして他人と礼儀れいぎ忘れわす ずに接するという、小さいときからの自分の生活態度をずっと守りつづけたようなタイプの人のほうが、最後までがんばりぬいて弱音を吐くは ことがなかった、という。そんな話を聞いたりすると、うーん、それも新しいサバイバルの方法であるな、という感じがします。
 同じようなことは、今世紀最大の悲劇ひげきと語りつがれるアウシュヴィツの強制収容しゅうよう所でもいえそうです。
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 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を連行し、そして強制的な収容しゅうよう所をつくり、そのなかでもっとも残虐ざんぎゃく殺戮さつりくが行われたのがアウシュヴィッツです。
 その地獄じごくから奇蹟きせき生還せいかんをしたフランクルという人が、そこで起こったことを記録にまとめ世に出します。それが翻訳ほんやくされて日本では『夜ときり』というタイトルの本になり、多くの人びとに、人間存在そんざい残酷ざんこくさと、そのなかで宝石ほうせきのように光る生の尊厳そんげんを静かに訴えうった て、いまでもロングセラーとして読まれつづけています。
 ほとんどの人が死んでゆくなかでフランクルがどのようにその極限状態を生きぬいて奇蹟きせき生還せいかんをとげたか、ということが、ぼくにとっては興味の的だった。いろんなことがあります。
 精神科医だったフランクルは、人間がこの極限状態のなかを耐えた て最後まで生きぬいていくためには、感動することが大事、喜怒哀楽きどあいらくの人間的な感情が大切だ、と考えるのです。無感動のあとにくるのは死のみである。そして自分の親しい友だちと相談し、なにか毎日ひとつずつおもしろい話、ユーモラスな話をつくりあげ、お互いに たが  それを披露ひろうしあって笑おうじゃないか、と決めるのです。
 あすをも知れない極限状態のなかで笑い話をつくって、お互い たが に笑いあうなんていうことになんの意味があるのか、と思われそうですけれども、そうではないのです。あすの命さえも知れないような強制収容しゅうよう所の生活のなかでユーモアのあるジョークを一生懸命いっしょうけんめいに考え、お互い たが 披露ひろうしあって、栄養失調の体で、うふ、ふ、ふ、と、力なく笑う。
 こういうことをノルマのように決めて毎日実行したというのですが、むしろそういうことも、ひょっとしたらフランクルが奇蹟きせき生還せいかんをとげる上での大事な役割やくわりを果たしていたのではないか、と思います。
 ユーモアというのは単に暇つぶしひま   のことでなく、ほんとに人間が人間性を失いかけるような局面のなかでは人間のたましいをささえていく大事なものだ、ということがよくわかります。
 また、同じように――風景というものに対して非常に感受性のつよい人間がいる。そして、たとえば強制労働のなかで水たまりに
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長文 11.2週 hu2のつづき
映っうつ た冬の枯れ枝か えだの風景を眺めなが て、あの、レンブラントの絵のようだ、なんていうことを考えたりする人がいる。こういう感じかたをする人のほうがじつは強制収容しゅうよう所の非人間的な生活のなかでは、むしろ強く、生き延びるい の  ことができたのです。

 このエピソードは、人間が健康とか体力だけで厳しいきび  条件に耐えた られるものではない、ということを如実にょじつに表現しているような気がしないでもありません。

(五木寛之ひろゆきの文章より)
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