1おとうさんとか、おかあさんとか、兄弟とか、仲のよい友だちとか、そういう近しい間柄の人たちでさえ、時によると、私たちのしたこと、いったことをほんとうにわかってくれなかったり、まちがえて悪く思ったりすることがあります。2そのためにおたがいの仲がまずくなるということも、よくある例です。
こういう場合には、誤解が私たちを不幸にします。3誤解を受けた私たちばかりでなく、誤解したおとうさんやおかあさんや友だちにだって、それは不幸なことです。4だから、こういう場合には、おたがいの不幸をとりのぞくために、誤解を残しておかないようにつとめなければなりません。ほんとうのことをわかってもらうように、よく話をしなければいけないと思います。
5ところが、みなさんならば学校での大勢の友だち仲間、またおとなならば世間の人々など、そういう特に近しい間柄でない人たちが、私たちについていろいろいったり考えたりしていることに対しては私たちは、たとえそれが耳にはいっても、いちいちいいわけをしないですませるようにならなければいけないのです。6というのは、大勢の人を相手に、いちいちいいわけをしたらきりがないという理由からばかりではありません。7いちいちいいわけをせずにはいられないという気持ちが、つい私たちに、もっともっと大切なもののあることを忘れさせてしまうという、大きな危険があるからです。8もともと私たちにとってかんじんなことは、自分という人間がほんとうにどんな人間かということ、自分のしたことがほんとうにまちがっていなかったかどうかということであって、他人がそれをどう見るかということではないでしょう。9むろん、だれにしたって人からどう思われるかは気になることですが、あんまりそれを気にする人たちは、他人の目に自分がどううつるか、そればかりに心を使って、ほんとうの自分がどんな人間かということを、いつのまにかお留守にしてしまいがちです。0みなさんがだんだんおとなになると、他人の目によく見られたい、偉そうに見られたい、親切らしく見られたい、金持ちらしく見られたい……などと、いろいろ自分でないものに見られようとして、そればかり気にしている人間がじつに多いことを知ってくるでしょう。もちろん、そんな人間にろくな人はないのですが、当人も世間もそれにだまされている場合が少なくないのです。しかし、考えて見れば、立派な
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