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 では「美」とは何か、どういうものか、これは大学で学ぶ「美学」というものがあるほどの大テーマですから簡単かんたんには言えませんが、それが知りたくて読んだ岸田劉生りゅうせいの『美の本体』(講談社学術文庫)という、むかしよく読まれた本があります。その中で、「『美しい』と『きれい』とはちがうのだ」という一行だけが印象に残っています。その言葉のためにある本のようなものでした。「きれいなもの」もいいけれど、そのうち飽きあ てきます。いつまでも、あるいはいつ見ても心に響くひび ということは少ないでしょう。
 その本が文庫本になっていたので、最近読み直して、若いわか ときに、こんな難しいむずか  ものをよく読んだなと思いました。そして「絵描きえか は美の使徒である」という言葉に出会って少し苦笑しました。それは自分でそう言い聞かせて、自分を駆り立てか た ているのだと、好意的に読むことはできました。絵描きえか が「ぼくは美の使徒だ」と言うのは自由だけれど、他人が言うのでなければ信憑しんぴょう性がありません。
 今はどうか知りませんが、旧ソ連では、絵描きえか であることが尊ばたっと れたそうです。「あの人は芸術家だから」とか「あの人はバレリーナだから、配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。ニューヨークでも、アーチストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーチストと名のつく仕事についている人は優遇ゆうぐうされて安く住むところが用意されているのだそうです。
 日本では、優遇ゆうぐうどころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。国策こくさくとして科学的発見を願う時代に、「美」などは迂遠うえんなことのように思われ、直接コンピューターの教育を徹底てっていすれば足りる、と考えられているようですが、わたしにはそう思えません。科学的にも、芸術的にも「美しいものを創造そうぞうしよう」とする感性と執拗しつような努力が両輪となって、新しい境地を開くのです。努力は金のためであったとしても、その努力を続け得るのは、美しいものに魅せみ られる感性のた
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めです。そんな意味で美術教育の時間が減らされたことは惜しまお  れます。
 「『美しい』と『きれい』とはちがう」……これは傾聴けいちょうすべきことばです。「きれい」というのは「汚いきたな 」の反対語ですが、「美しい」というのは醜悪しゅうあくな部分までも含んふく でいます。たとえば、グリューネヴァルトの作になる、コルマール(フランス)の教会の祭壇さいだん画に描かえが れたキリストは、目を覆うおお ほどのおできや腫れ物は もの覆わおお れています。また金子光晴の「大腐乱ふらん」という詩も、人間が死んで腐乱ふらんしていく、大自然の過程をたたえる詩として歌っています。このように一見したところは醜悪しゅうあくなものでも、心を打たれずにはおられません。満開の桜も美しいけれど、秋の枯れ葉か は褪せあ た色も美しい。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは(桜の花は、満開のものだけを、月は満月だけを見るべきものだろうか、いやそうではない。)」(兼好けんこう法師「徒然草」第一三七だん)というのはこのことです。
 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。自然や芸術作品に、人の心を動かすだけの力が無くてはかないませんが、それを見る人の感性のありかたというものがあろうと思います。「きれい」なものに心を動かされても悪くはありません。しかしさらに深く働きかけて、見る者が「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです。つまり「美」という厄介やっかいなものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。

 (安野光「絵のある人生―見る楽しみ、描くえが 喜び―」(岩波新書)より。)
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