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 がんばることが大好きな日本人は、さまざまな場面で「努力」「勉強」などという言葉を好んで使います。「勉強しなさい」とは、学校でも家でもよくいわれることで、みなさんの中にはいいかげん耳にたこができている人もいるのではないでしょうか。みなさんは小学校時代を通じていろいろなことを学び、そして、さらにこれから中学校に進学して勉強をつづけようとしています。それでは「勉強」とはどのようなもので、何のためにするものなのでしょうか。
 日本の漢字には音読みと訓読みがあります。「べんきょう」というのは音読みですが、これを訓読みにしてみると「つとめしいる」と読むことができます。「つとめる」とは一所懸命いっしょけんめいにはげむこと、「しいる」とは無理やりやらせることといった意味です。つまり、「勉強」には、「学問につとめはげむ」という意味の中に、何かを無理じいするニュアンスがふくまれるため、はじめからいやな印象がつきまとっているのです。「勉強しなさい」といわれて、いやな気分になるのは、もっともなことかもしれません。
 また、日本語の「勉強」には、次のような使い方もあります。
 例えば、八百屋さんで野菜を買おうとするときのことです。できるだけ安く買いたいと思い、ねぎったときに、八百屋さんが、「勉強しましょう」といいます。
 これは、本当は安くしたくはないのだけれども、しかたない、お客さんのためにおまけしますという意味です。
 この八百屋さんは安く売ることを「つとめ、しい」られていますが、みなさんがやっている「勉強」の場合にも、何かいやなことを「つとめ、しい」られるという感じがあるのではないでしょうか。次にこの「勉強」について、中国語のもとの意味から考えてみましょう。
 中国語の「勉強」にも「つとめ、しいる」、「むりじいする」という意味はあります。しかし、現在、中国では、みなさんがやっている「勉強」には、「学習」という漢字を使います。「わたしは日本語を勉強しています。」を中国語に直すと、「われ学習日本語。」となります。しかも、中国語でいう「勉強」は、学問だけにつとめはげむという限定された意味では用いません。
 (中略)
 島国の日本は歴史的にみて、つねに新しい外来の文化をより早くより多く輸入しなくてはならない状況じょうきょうにありました。最初は中国から、明治時代以後はヨーロッパから、多くの知識を夢中になってとりいれてきました。その結果、日本人は外来文化の表面的な部分ばかりを身につけ、内面的な部分について学ぶことをなおざりにし
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てきてしまったきらいがあります。何のために「勉強」するのかという目的を問う前に、知識をえるために、がむしゃらに「つとめ、しいる」くせがついてしまったのです。こうした背景はいけいから日本では、学問がただ単に「つとめ、しいる」作業として考えられ、めんどうくさく、たいくつで、つまらないものといったイメージが強くなってしまったのだと思います。しかし、学生時代は、人間がこれまで築いてきた文化の基本をひろく学び、自分自身の生き方を考える時でもあります。まさに学校の授業を通じてなされる「勉強」の大切な点はここにあります。
 みなさんの進む方向がそれぞれちがうように、「勉強」の目的も人によってさまざまでしょう。そして、目的は最初からあるものでなく、また人から強制されるものでもありません。自分の行くべき道を自分でさがしていくには、多くの困難こんなんもともなうでしょう。そうした困難こんなんにうち勝ち、自分の勉強する目的をはっきりさせ、勉強する中で自分の生きがいを見出すことができたら、「勉強」も苦痛くつうではなく、充実じゅうじつしたものになるでしょう。
 「勉強」とは、それ自体が目的ではなく、あくまでもそこへ行きつくための手段しゅだんにすぎません。手段しゅだんを目的とかんちがいするときに「勉強」は単なる苦痛くつうの種になってしまうのだと思います。
 大切なのは、何のために学ぶかです。したがって、学生時代とはこの課題を「勉強」を通じて考えていく、いわば自分探しさが の旅の始まりにもたとえることができるでしょう。

 (和洋九段くだん女子中より)
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