a 長文 9.3週 hi
 世界じゅう、どこに行っても日本人の旅行者たちは、身のまわりに、「日本」をもって動き回る。食べものも飲みものも言語も、ことごとく日本のもの――それにとりかこまれていないとなかなか安心できないのである。旅行者たちをとりかこむ小さな「日本」、あるいは、彼らかれ が持ち歩く「日本」、それを、わたしは「文化的カプセル」と名づける。日本人は、日本文化を微分びぶん化した小さなカプセルの中に入って、そこではじめて、安心するのである。日本航空の客室は、そうしたカプセルのひとつであり、また日本人専用せんようのホテルや観光バスもそれぞれに、「文化的カプセル」である。その中に入っているかぎり、目にみえない文化の皮膜ひまくのようなものが、日本人を外界から遮断しゃだんしてくれるのである。そして、その皮膜ひまくの中から日本人はほとんど足をふみ出そうとしない。もちろん、人間というものは、おしなべて保守的な存在そんざいであって、自分にとってなじみのある世界から離れるはな  ことを非常に嫌うきら 習性がある。じっさい、日本の観光客が「日本」にすっぽりとつつまれていることを批判ひはんするアメリカ人だって、みずからが外国旅行に出かけるときには、アメリカ文化の皮膜ひまくを身のまわりに張りめぐらしているではないか。彼らかれ は、アメリカの航空会社の飛行機にのり、世界の主要都市につくられたアメリカ資本のホテルに泊りとま 、そして、食事といえばアメリカ風ハンバーガーだの、ステーキだのに安住する。文化的カプセルは日本だけの特産品なのではない。アメリカ人だって、フランス人だって、それぞれの文化的カプセルにつつまれて生活するのが快適なのだ。そもそも「文化」というのは、そういう性質のものなのである。日本人だけが「文化」の皮膜ひまくにかこまれていると考えるのは、まちがいだ。
 しかし、おそらくひとつ問題として残るのは、その皮膜ひまくの強度の問題であろう。そしてわたしのみるところでは、日本人の場合、とりわけその「文化的カプセル」の外皮膜ひまくは、かなり強く、それを内がわから破ることを日本人はあまりしたことがないように思えるのだ。
 ある年のお正月にも日本から一万人以上の観光客がハワイにやってきた。そんなにたくさんの日本人が一度に来たのは、ハワイにとってはじめてのことであったから、ハワイ州の観光局は、観光客
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歓迎かんげいして特別のプログラムを組んだ。すなわち、ホノルルの市民に呼びかけよ   て、日本の人たちを家庭に招きましょう、という「家庭訪問ほうもん」プログラムをつくったのである。じっさいハワイのホテルに宿泊しゅくはくし、観光バスに乗っているだけでは、ハワイ生活、あるいはアメリカ生活というのはわからない。相互そうごの理解を深めるためには家庭に招くのがいちばんよろしい。招くといってもせいぜい一時間か二時間、お茶でもさしあげましょう、といった程度の、きわめて気楽で簡単かんたんなご招待だ。大変結構なアイデアである。このプログラムはホノルルの新聞でもくわしく伝えられた。そして、数千人の市民たちが、ぜひ日本からのお客をもてなしたい、と申し出た。観光局はそのリストを整理して観光客を待ち受けた。そして次から次へと到着とうちゃくする日本人旅行者に、どうぞハワイの家庭を訪ねたず てください、とさそったのである。
 ところが、驚くおどろ べきことが起こった。この一万余の日本人が、ことごとく尻ごみしり  したのである。関心を示さないのである。結局のところ、この「家庭訪問ほうもん」プログラムに応じてホノルルの家庭を訪ねたず た日本人は、たった六人であった。観光局が準備した歓迎かんげい計画は、完全に失敗した。
 しかし、もしこれと同じようなことを、事態を逆転して考えてみるとどういうことになるだろうか。つまり、アメリカから日本への観光客に、日本の家庭を訪ねたず てみませんか、とさそってみたら、どういう結果になるだろうか。わたしの観測では、多くのアメリカ人は身をのり出して、ぜひ訪問ほうもんしてみたい、と好奇こうきの目を光らせるにちがいないのである。外国に出かけたのだからその土地の人と知り合いになってみるのはおもしろいことだ。いったいどんな家で、どんなふうにこの人たちは暮らしく  ているのだろう――そういう好奇こうき心が西洋人の心の中に芽生えるのである。
 
 (富士見中)
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