a 長文 9.2週 hi
 噴水ふんすいは、飲めない水である。浴びることの出来ない水である。しかも、その水はただそこを循環じゅんかんしているだけであるから、何ものをも潤さうるお ない。言ってみれば、何の役にも立たないものなのだ。そして、それがいい。都市住民は、すべてが役に立つという環境かんきょう馴らさな  れているから、目の前に突如とつじょとして何の役にも立たないものが出現すると、それだけで文化的衝撃しょうげきをうけ、深く困惑こんわくする。つまり、この困惑こんわくが新たな文化を創り出すつく だ のであり、噴水ふんすいはそのためのものであろう。
 現在先進諸国しょこくの各都市では、経済けいざい活動から文化活動へいそしむべく、都市とその住民に方向転換てんかん促しうなが つつあり、都市の各所に「何の役にも立たないもの」を出現させることで、住民に文化的衝撃しょうげき与えるあた  ことが、静かに流行しはじめている。ドイツのミュンヘンの街角に、コインの投入口のない自動販売はんばい機が出現したのは、まだ記憶きおくに新しいところであろう。もちろん当初ミュンヘンの住民は苛立っいらだ て、その自動販売はんばい機を叩きたた 壊しこわ たが、壊さこわ れた自動販売はんばい機がまた次の日、元通り投入口のないまま立っているのを見て、やめたのである。
 現在その自動販売はんばい機の周辺にはベンチが配置され、人々は噴水ふんすいの周辺に群がるように、やや困惑こんわくしながらたたずんでいる。もちろんミュンヘンには噴水ふんすいもあり、それも住民に対して同様の効果を発揮はっきしてしかるべきなのであるが、ミュンヘンの住民は、コインの投入口のない自動販売はんばい機ほどには噴水ふんすいを、「役に立たないもの」と見なさない傾向けいこうにあるようなのだ。もしかしたらミュンヘンでは、噴水ふんすいの水で洗濯せんたくをしてもいいことになっているのかもしれない。
 パリのエッフェル塔     とうの近くの噴水ふんすいでも、この夏人々が水浴びをしていたから、間もなく彼等かれらも、もし文化的に向上したいのなら、「もっと役に立たないもの」を、どこかに出現させなくてはいけな
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くなるであろう。「金を受け取らない乞食こじき」などというものが、どこかの街角にうずくまることになるかもしれない。
 その点、日本人はまだ大丈夫だいじょうぶである。噴水ふんすいは、依然としていぜん   「役に立たないもの」であり続けており、周辺に群がる人々も、依然としていぜん   「どうしていいかわからない」まま、困惑こんわくしている。ただし、油断は出来ない。夏の日照りが続き、恒例こうれいの水不足になると、都市によっては噴水ふんすいの水を停めてしまうところがあるからである。前述したように、噴水ふんすいの水というのは同じものが循環じゅんかんしているだけなのであるから、どんなに水不足の場合でも、停める必要はない。停めたって、水不足を補うおぎな ことにはならないのだ。
 にもかかわらず停めるのは、水不足について都市住民の多くが心配しているという局面に、そぐわないと考えるからであろう。この考え方がよくない。「そぐわないからこそ噴水ふんすい噴水ふんすいなのである」という視点してんが、ここには欠落している。「真剣しんけんに生活しているものの生活感覚を、さかなでするものであるからこそ噴水ふんすい噴水ふんすいなのである」という、まさしく噴水ふんすい立脚りっきゃく点とでも言うべきものが、無視むしされている。
 つまり、各都市が水不足になる度に、我々われわれ噴水ふんすい危機ききに立たされていると言っていいだろう。言うまでもなく、単に水が停められてしまうからではない。「停めなければならない」と考える人々の姿勢しせいの中に、噴水ふんすいの真に噴水ふんすいたるものを否定ひていする傾向けいこうが芽生えるからである。
 噴水ふんすいに、電気仕掛けしか の細工をしたり、照明で色をつけたりするのもよくない。見ているものを楽しませようとする工夫であろうが、あれも、噴水ふんすいの真に噴水ふんすいたるものを見えにくくさせる。噴水ふんすいは、ただ水を噴き上げふ あ ていればいいのである。

(別役実『都市の鑑賞かんしょう法』による。サレジオ学院中)
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