a 長文 8.2週 hi
 みなさんには、まだ字を読めないころの読書体験がありますか。いや、これは矛盾むじゅんしていますね。字を知らなければ、読書はできない。言い直しましょう。字が読めないことを意識しつつページをめくり、「ここには何が書いてあるのだろう」と思い、もどかしい興奮こうふんをおぼえたことがありますか――ちょうどかずのの戸を見るように。
 わたしにはあります。雑誌ざっしだったか、その付録だったか、とにかく兄の本です。そこに「漫画まんが描きえが 方」のようなものがのっていました。しかし、字は読めない。だからこそ、想像を絶するほどおもしろかったのです。で、また矛盾むじゅんしたことを申し上げましょう。そのおもしろさを、想像してみてください。そこにあったのは、実に不可思議な世界です。技法説明のため、さまざまな表情や姿すがたがならんでいました。かと思うと、それらを生み出す、裏方うらかたのペンやインクの絵が描いえが てあったりします。
 わたしが一番強烈きょうれつにおぼえているのは、こういう場面です。古い漫画まんがの手法では、人が歩いた後に、マッシュルームを横にしたような印が、次々についていきます。砂ぼこりすな   象徴しょうちょうなのでしょう。さて、その本の中の人物は、ほこりマークを現実にあるもののように扱っあつか ていたのです。手に持っていたのかもしれません。拾い集めていたか、あるいは、歩く人物の後ろに置いていったのかもしれません。そうやって、描きえが 方を説明していたのです。なんとも奇妙きみょうな絵でした。「ここに書いてある字が読めたらなあ」と、強く思いました。どういう部屋のどのあたりにすわっていたかも含めふく て、その時の記憶きおく鮮やかあざ  にあるのです。小学生になってからも、時々、あの漫画まんがにもう一度会いたいと思いました。
 さて、「漫画まんが描きえが 方」は、本来の目的からいえば、鑑賞かんしょうのためにあるのではなく、実用のためにあるものです。しかし、わたしにとって、それはなぞに満ちた物語、通常の音階を持たぬ歌だったのです。これこそ、本というものの持つ力ではないでしょうか。た
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とえば、夏目漱石そうせきの読み方に、これという絶対の正解があるのなら、われわれは、その答えを人から聞けばいい。しかし、漱石そうせきへの対し方は読者の数だけあります。
 下手な手品は一方からしか見られないといいます。しかし、魔法まほうは、上から下から斜めなな から見ても、人の後ろに立って見ても、遠く離れはな て望遠鏡で見ても魔法まほうでしょう。ある人には、むねのポケットから取り出したものがちょうと見え、また、ある人には蜂鳥はちどりと見える。しかし、どちらも真実なのです。
 つまり、本を読むというのは、そこにあるものをこちらに運ぶような機械的な作業ではない。場合によっては、作者の意図をもこえて、我々われわれの内になにかを作り上げて行くことなのだと思います。
 しかし、仮にあげた例は、あくまでも例なので、今あの時の「漫画まんが描きえが 方」が手に入ったとしても、それは昔のかがやきをもったものではないでしょう。幼いおさな 日に読んで血をわかした本が、後年こうねん読み返してみると、思いのほかにつまらなかったりすることは、間々あるものです。けれども、砂時計すなどけいを手に取りひっくり返すように、あるときからは、また新しいすなが積もりだすものです。中学生の時、読んで少しもおもしろくなかった本の妙味みょうみが、年を重ねることによってわかるようになったりもします。
 そういう読みにたえられる、厚みを持ったものが、古典です。
 手ごわい相手、理解できない書に行きあたると、文字の読めない幼児ようじのように、その昔に帰ったようにもどかしく、「この本が読めたら」と足ずりしたくなります。歯の立たないものをかんだようなつもりになって、見当違いちが 解釈かいしゃくをすることも多い。だが、わたしにとっては、それこそが読書の楽しみなのです。

 (女子学院中)
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