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 わたしが市場へゆく道は、いかにも自然発生的な細いやさしい道だ。家と家との間に何となく作られた人間のふみならした道だ。ところが、その道は最近アスファルトがしかれてしまった。夏の日など、かごを下げて歩いてみると、いかにもむんむんして照りかえしがきつい。それに何ともふぜいがなくなった。
 わたし舗装ほそうされたのを残念に思った。新たに作った高速道路のようなものならまことにりっぱな舗装ほそうがあってしかるべきだと思う。しかしほとんど車も通らない昔ながらの通り路のようなものまで舗装ほそうする必要は果たしてあるのだろうか。いちおう石ころで足うらがごろごろすることもなくて歩きやすいようではあるが、はば一メートルありやなしやのこんな細道がべタッと黒くアスファルトを塗らぬ れているのはいたましくさえある。弱いはだにこってりドーラン(おしろいの一種)をぬって皮膚ひふ呼吸こきゅうをふさいでしまった感じがする。
 わたしがこどものころはいていた皮くつは、たいていどれもこれも(つまさきがけばだっていた。石けりをしながら歩くせいだ。これときめた小石を、小さくけりつづけながら学校へゆき家に帰る。車の心配などほとんどせず、けとばした石のゆくてのまにまに、よろけながら歩くのである。いま、こんなことをしたら、それはもういっぺんに車にひかれてしまうが、昔はそんなことをしながらにぎやかにこどもは道を歩いた。
 道にはいろいろなものがあった。しゃれた石、虫の死がい、雑草の可憐かれんな花、ラムネびんの破片はへん、石炭のかけら、鳥の羽。そんなものにいちいち心をとめながら、ゆっくりとこどもは楽しみながら歩くのであった。舗装ほそうされた道にはそんな、手にとりたいようなものは何にもないのだ。
 最近ある方から石を一ついただいた。ダイヤモンドやルビーでもない、また当然石ブームでさわがれるきく石とか赤石とかのしろものでもない。平べったい薄茶うすちゃ色の石で、手のひらに軽く乗る大きさ、重さである。
 ただおもしろいのは、全体にキララ(光る鉱物の一種)が入っていることで、光を受けて小さく一せいにまたたく。太陽にあてると楽しいですと言われて、わたしは日の光にも、また月の光にも照ら
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してみた。チカチカとかわいらしくきらめくのをみると、いわゆる童話の世界のおもむきがある。その人は、道で拾いましたと言った。どんな道だろう。ゆたかな気持ちで、ものみなすべてにいとしみを感じながら歩く土の道にちがいない。無味乾燥かんそうなアスファルト道路、車が通るだけのための道にはこんな石はないのだ。
 もちろん舗装ほそうされた道も場合によっては大切である。ほこりをあびせかけられる街道筋(かいどうすじの家などは気の毒で見られない。一刻いっこくも早く舗装ほそうしなければ、道すじの家はまども開けられない。だが、道が一番道らしいのは、人間のくらしをあたたかに支え、いろいろなものを発見することのできるふみしめられた道である。この事だけは忘れわす てはならないのだ。
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