a 長文 3.2週 he
 端的たんてきにいって、わたしたちは、お話を文学――文学のうちでも、文字によらず、声によって伝達される文学――と考えています。口承文学ということばもありますが、そういうかたいことばをさけるとすれば、文学作品を、語り手が、おもに声によって表現し、それを聞き手ともども楽しむことだといってもよいでしょう。ですから、たとえば交差点の正しい渡りわた 方を教えるためのお話、あるいは、幼稚園ようちえんなどでよくやるような、集団生活のルールを教えたり、衛生上のしつけをするために聞かせるお話など、何かを教える方便としてのお話は、ここでは一応のぞいて考えます。母親や教師が、自分の見聞きしたこと感じ考えたことを話すのも同じです。これらの話は、子どもにたいへん喜ばれますし、子どもとの気持ちの交流という点からいうと非常に貴重きちょうですが、内容や表現が吟味ぎんみされ、個人的なつながりをもっている人だけでなく、もっと一般いっぱんに通用する文学的な価値かちをもつ場合を除いのぞ て、ここでいうお話には含めふく ません。
 したがって、ここで扱うあつか お話は、話そのものに文学的な価値かちがあることを前提とします。この文学的価値かちということは、たいへんむつかしい問題で、論じろん だせばきりがありませんが、ここでは、ひとまず、文学的に価値かちのある作品とは、「わたしたちの心を楽しませ、人間についてのわたしたちの理解を助けてくれるもの」と、表現しておきましょう。そして、この「心を楽しませる」ことの中には、内容だけでなく、その表現の形式からくる美しさが、わたしたちの心を楽しませることが含まふく れていることを、とくに指摘してきしておきたいと思います。
 さて、ではそういう作品をどこに求めるかということになりますと、具体的には昔話と創作そうさく(主として子ども向きの短編)ということになります。そして、語るという点からいえば、このうち、とくに昔話が重要になってきます。昔話は、なんといっても本来語りつたえられてきたものなので、語って聞かせる話のそなえていなければならない基本的な条件を満たしているからです。また、昔話は、一般いっぱん大衆たいしゅうの文学でしたから、とり扱うあつか テーマは、普遍ふへん的、根源こんげん的ですし、その表現形式は、簡潔かんけつでそぼくな心の持ち主にもよ
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くわかるようになっています。つまり、今日の子どもの興味や心理や理解能力によく合うのです。昔話が、今日では、もっぱら子どものための文学になっているのはこのためでしょう。
 昔話の中には、単に語ることから生じた表現の形式や民衆みんしゅうの文学であることからくる内容の普遍ふへん性ということだけでなく、何かもっと大きな力がかくされているような気がしてなりません。昔話は、文学のもとの形といってよいものですから、そこには、人間が物語を生み出し、それを支えてきた心の動きや力のもとが内蔵ないぞうされています。昔話のもつこのふしぎな力の本質を解き明かすことは、わたしにはとうていできませんが、子どもの時代に、少しも昔話にふれることなく育ったら、文学を味わい楽しむために必要な、何か非常に大切な要素が欠けおちてしまうのではないか、とだけはいうことができます。
 語り手としても、もし、よい語り手になりたいと願うなら、たえず昔話にふれている必要があるとわたしは思います。それは、単に、そこから話の材料が得られるからというだけでなく、昔話に親しむことによって、「物語」やそれを「語る」ことの意味が少しずつわかってくるように思えるからです。お話に興味をもつ者にとっては、昔話は、たえずそこに自分をうるおしにかえっていかなければならないいずみのようなものだと思います。
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