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 小学生のとき、夢中になって『ファーブル昆虫こんちゅう記』を読んだ。理科よりも国語、算数よりも社会が好きだったわたしは、はじめこの本のタイトルを見て、敬遠けいえんしていた。
 「おもしろいわよ。たまには、こういうのも読んでみたら?」
 物語にばかり偏るかたよ わたしに、勧めすす てくれたのは母だった。
 朝顔の観察とか、ありの巣づくりを調べるとかいうことは、好きなほうではなかった。たぶん、そんなようなことが、たくさん書いてある本だろうと思っていた。そして実際に読んでみると、たしかに内容は、そんなようなことである。にもかかわらず、ぐいぐい引き込まひ こ れていった。勧めすす た母親のほうがあきれるくらい、ても覚めても『ファーブル昆虫こんちゅう記』、という感じだった。
 それでは、わたしはファーブルによって、昆虫こんちゅうへの理科的な興味を開眼させられた、といっていいだろうか?
 ちょっと違うちが ような気がする。それまで夢中になった本と同じように、わたしはそこに「物語」を読んでいたのだ。
 登場する昆虫こんちゅうたちは、ユニークで頭がよくて愛嬌あいきょうのある主人公。彼らかれ のくりひろげる「生きる」という物語にすっかり魅せみ られてしまった。
 『ファーブル昆虫こんちゅう記』の素晴らしさは、ここにあるのだと思う。自然のなかに隠さかく れている、楽しくて不思議でときには厳しいきび  物語の数々を、現在進行形でファーブルとともに発見してゆく喜び。『オズの魔法使いまほうつか 』や『不思議の国のアリス』を読んでいるときにも似たような興奮こうふんが、そこにはあった。
 なかでも印象に残っておもしろかったのは「ふんころがし」すなわち「オオタマオシコガネ」の章である。今回あらためて読みかえしてみて、この虫を描くえが ときのファーブルの筆には、ひときわ愛情がこもっているように感じられた。子ども心にもそれが伝わったのだろうか。
 自然の恵みめぐ を受けることと、自然と戦うことが、表裏一体ひょうりいったいとなって紡がつむ れるドラマ。西洋ナシの形をしたお団子のなかで生きる
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幼虫ようちゅうの話は、何度読んでも飽きあ ないものである。虫の持つ知恵ちえへの驚きおどろ も、もっとも大きい章だった。
 ところで、昆虫こんちゅうというと、最近ちょっと気になる報道があった。
 昆虫こんちゅう採集は自然破壊はかいにつながるのでやめようという意見があるという。子どもにも自然を大切にする心を教えなければ、と。
 一瞬いっしゅん、なるほどと思いかけて、いやいや待てよ、と思った。せみを採ったり甲虫かぶとむしをつかまえることは、自然と親しむことにこそなれ、自然を破壊はかいすることにはならないのではないだろうか。むしろ、そういう体験をすることなしに大人になってしまうことのほうが、こわいような気がする。
 貴重きちょうな高山植物やちん種のちょうを採ることはもちろん規制されてしかるべきだろう。が、そういう特殊とくしゅな例を除けのぞ ば、昆虫こんちゅう採集の禁止は、それこそ近視眼きんしがん的な発想ではないかと思う。子どもが採集するぐらいで、せみ昆虫こんちゅう絶滅ぜつめつしたりはしない。山を切り崩しき くず たり、ゴルフ場を造ったりするほうがよっぽど虫たちを脅かすおびや  ことになるだろう。
 そんな愚行ぐこうから虫たちを守ろうと、将来しょうらい発想することができるのは、どんな育ちかたをした子どもだろうか。せみ甲虫かぶとむしも見たことがない、というのでは、はなはだ心もとない。
 ファーブルも、さまざまな実験の途中とちゅうでは、多くの虫たちを死なせてしまっている。せみをフライにして食べちゃったりもする。が、ファーブルが心から虫を愛していた人であることはいうまでもない。昆虫こんちゅう採集禁止をとなえる人は、ファーブルの行為こういもまた残酷ざんこくだというのだろうか。
 愛情は、なにもないところからは生まれない。まず「知る」ことが、愛情のめばえのスタートだ。

(俵万智まち「二十一世紀の子どもたちへ」(『世界文学の玉手箱四 昆虫こんちゅう記 下』(解説)(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ所収しょしゅう)より)
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