1個人が集まって社会を作りあげている。だから、個人をぬきにしては社会はなりたたないし、考えることもできないということにまちがいはありません。2しかし、それは砂粒が集まって砂山を作り、歯車やネジが集まって機械を作りあげているのと同じでしょうか。あるいは、動物や植物のからだが無数の細胞からできあがっているのと同じなのでしょうか。3個人とは、社会に対して、砂山を作っている一粒の砂や、機械の一部分である一つの歯車や、あるいは、生物のからだをつくっている一つの細胞のようなものにすぎないのでしょうか。――いいえ、そこには、けっして同一に考えられない大きな大きなちがいがあるのです。
4砂粒は喜ぶことも悲しむこともありません。歯車は自分から動くことはできず、ただ動かされるままに動くだけです。そして細胞は生きてはいても、自分で考えたり自分で目的をさだめたりすることはありません。5ところが、ひとりひとりの人間は、喜んだり悲しんだりする心の持ち主です。また、自分から動きだして、ほかのものを動かしてゆく力の持ち主です。6自分の選んだ目的に向かって、自分の意志で行動してゆく能力の持ち主です。石も砂も、草も木も、人間以外のものはすべて、自分で自分のありかたや行動を選ぶことができないのに、ただ人間だけがそれをやれるのです。7それが人間の自由というものであって、しかもひとりひとりの人間が、いや、ひとりひとりの人間だけが、この能力を持っているのです。8――社会が個人の集まりからできているということは、ほかでもない、このような能力の持ち主の集まりだということです。そして、個人にくらべてどんなに大きくとも、社会がこの能力を持っているというのではありません。9社会全体の動き、あの大波のようにゆれ動き、大河のように流れてゆく動きというものも、このような能力を持った個人個人の動きが、あるいはぶつかりあい、あるいは結びつき、あるいはからみあって生じてくるものなのです。0
(吉野源三郎『人間の尊さを守ろう』より)
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