a 長文 4.4週 ha2
 最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか専門せんもん家というか、プロフェッショナルが敬遠けいえんされ始めた。なぜそうなったか分析ぶんせきはしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな価値かち観がはびこっています。
 たとえば審議しんぎ会などに参加しても、普通ふつうの人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報げんに基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを頻繁ひんぱんに見かけます。
 本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして把握はあくしています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ危険きけんきわまりない。もっとも、最近の政治家も大衆たいしゅう迎合げいごうするばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの我が国わ くには、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
 ここでいうアマチュアとは、その主張の根拠こんきょがほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている範囲はんいのことをすべてだと思い込みおも こ 、あたかもそれが正論せいろんであるかのように、堂々としゃべる。そんな風潮ふうちょうが目につきすぎます。
 結局、そういう人たちには謙虚けんきょさがないということです。実際のところはよく知りませんが、わたしの知っている範囲はんいはこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを拡大かくだいして、人類一般いっぱん普遍ふへん的な話としてどうのこうのというような議論ぎろんまでするわけです。こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


 プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。自分の頭できちっと考えることができる、しかもその座標軸ざひょうじくは古今東西の歴史から、芸術、哲学てつがくに通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の尺度しゃくどを持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
 秀才しゅうさい呼ばよ れ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる秀才しゅうさいというのは所詮しょせん与えあた られた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
 戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初からがある、などという誤っあやま た前提に立ったために、教育と呼べるよ  ような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。

松井まつい孝典たかのり『コトの本質』(講談社))
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534