a 長文 6.4週 ha
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで武満とおるさんの新作クラリネット・コンチェルトがウィーン・フィルハーモニーによって演奏えんそうされる。二百年前、モーツァルトのクラリネット・コンチェルトがウィーンで初演奏えんそうされたのを記念する催しもよお で、百年前には同じ趣旨しゅしでブラームスがクラリネット五重奏じゅうそうを作曲していることを考えると、これは日本の音楽界だけでなく日本にとって大きな出来事だと思う。おそらくわが国の文化芸術の分野でこれに匹敵ひってきすることはかつてなかったし、今後もそうそうあることではなかろう。(中略)
 製紙会社の会長と作曲家武満とのかかわり合いを不思議に思われる方もあると思うが、家内同士が学校時代からの親友で、武満さんが二十さいを過ぎたころから家族ぐるみのお付き合いをしてもう四十年にもなろうとする。だからといってわたしかれの音楽をいっこうに理解するものではないが、今回世界の存在そんざいとまでなった武満さんの人生の来し方を眺めなが 続けてきた者として、その人間的バックグラウンドを語ってみたい。
 何よりもまず自分の道を自分のやり方で歩いてきた人である。作曲家としても徒手空拳としゅくうけん、自ら一家をなしたので、音楽学校へいったわけでも特定の師についたのでもない。本当に才能のある人は既成きせい概念がいねんで教育など授けないほうがよほど純粋じゅんすいに成長できるという真理をかれもまたわれわれに示してくれた。大江おおえ健三郎けんざぶろうとの共著きょうちょ「オペラをつくる」の中でかれはこういっている。
「ぼく自身が音楽家としての四十年、音を表現媒体ばいたいとして、自分でしか言い表せないようなことを表す。……音楽といってもその表現のスタイル、形式は多様で、たんに慰めなぐさ 娯楽ごらくのための音楽であれば、時代の人たちが喜ぶような表現方法はあるように思います。しかし、ぼくがやっている音楽はそういうものでなくて、音というものを通して人間の実在について考える。どちらかというと、詩とか哲学てつがくとか、そうしたものに近い表現形式として音楽をやっているわけで、これがいちばんむずかしいところなんですね」
 創造そうぞう性と個性、いまの日本人にこれほど求められているものはない。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 武満さんはまた世界人であると同時にすぐれて日本人である。かれの作風からもこのことはよくうかがえる。代表作であるノヴェンバー・ステップスには和楽器である琵琶びわ尺八しゃくはちが取り入れられ、本来西洋のものであるコンチェルトに日本の音色を植えつけたことはあまりにも有名である。前述の本の中でかれはまた、「ぼくの音は西洋音楽の音とはまったく違うちが 」とも述べている。かれの音楽は西洋の亜流ありゅうではないようだ。そこが世界の注目をひき絶賛を博しているのだと思う。(中略)
 ややしかつめらしいことを書いてきたが、多くの人々が武満さんにひかれるのは、根っからの市井しせい人である一面であろう。立派りっぱなサイレント・マジョリティの一員、卑近ひきんな言い方をすればくまさん、八つぁん的要素である。熱狂ねっきょう的な阪神タイガースはんしん     ファンでシーズンになると外出先でもラジオを離さはな 一喜一憂いっきいちゆうしている。まさに日本人の判官びいきを絵に描いえが たようなものである。
 わたしかれ背広せびろ姿すがたをほとんどみたことがない。普通ふつうはズボンにセーター、改まったときは、ネクタイなしだが独特のスタイルのジャケットを着用している。最近、だれのデザインですかと聞いたら、これは森英恵はなえさんですと答えた。これで日本はおろか世界中を通している。わたしはひそかに浴衣がけの外交と呼んよ でいる。あのとても頑丈がんじょうとはいえない肉体で年に何回となく外国に出かけるエネルギーは聡明そうめい献身けんしん的な奥さんおく  、才気煥発かんぱつお嬢さん じょう  、そしてねこひきという恵まれめぐ  た家庭のたまもので、これはかれの最大の作品かもしれない。市井しせい人の常識が申し分なく働いている。ここにもいまの日本人がともすればないがしろにしがちなものがある。
 武満とおるろんを最後に締めくくれし    ば、世界への道の前に日本の道があり、日本への道の前にわが道があったということであろうか。そして平凡へいぼんの中に非凡ひぼんがあることがなんとも魅力みりょく的である。

(河毛二郎「逆風順風」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 6.4週 haのつづき
 小学生のとき、夢中になって『ファーブル昆虫こんちゅう記』を読んだ。理科よりも国語、算数よりも社会が好きだったわたしは、はじめこの本のタイトルを見て、敬遠けいえんしていた。
 「おもしろいわよ。たまには、こういうのも読んでみたら?」
 物語にばかり偏るかたよ わたしに、勧めすす てくれたのは母だった。
 朝顔の観察とか、ありの巣づくりを調べるとかいうことは、好きなほうではなかった。たぶん、そんなようなことが、たくさん書いてある本だろうと思っていた。そして実際に読んでみると、たしかに内容は、そんなようなことである。にもかかわらず、ぐいぐい引き込まひ こ れていった。勧めすす た母親のほうがあきれるくらい、ても覚めても『ファーブル昆虫こんちゅう記』、という感じだった。
 それでは、わたしはファーブルによって、昆虫こんちゅうへの理科的な興味を開眼させられた、といっていいだろうか?
 ちょっと違うちが ような気がする。それまで夢中になった本と同じように、わたしはそこに「物語」を読んでいたのだ。
 登場する昆虫こんちゅうたちは、ユニークで頭がよくて愛嬌あいきょうのある主人公。彼らかれ のくりひろげる「生きる」という物語にすっかり魅せみ られてしまった。
 『ファーブル昆虫こんちゅう記』の素晴らしさは、ここにあるのだと思う。自然のなかに隠さかく れている、楽しくて不思議でときには厳しいきび  物語の数々を、現在進行形でファーブルとともに発見してゆく喜び。『オズの魔法使いまほうつか 』や『不思議の国のアリス』を読んでいるときにも似たような興奮こうふんが、そこにはあった。
 なかでも印象に残っておもしろかったのは「ふんころがし」すなわち「オオタマオシコガネ」の章である。今回あらためて読みかえしてみて、この虫を描くえが ときのファーブルの筆には、ひときわ愛情がこもっているように感じられた。子ども心にもそれが伝わったのだろうか。
 自然の恵みめぐ を受けることと、自然と戦うことが、表裏一体ひょうりいったいとなって紡がつむ れるドラマ。西洋ナシの形をしたお団子のなかで生きる
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 

幼虫ようちゅうの話は、何度読んでも飽きあ ないものである。虫の持つ知恵ちえへの驚きおどろ も、もっとも大きい章だった。
 ところで、昆虫こんちゅうというと、最近ちょっと気になる報道があった。
 昆虫こんちゅう採集は自然破壊はかいにつながるのでやめようという意見があるという。子どもにも自然を大切にする心を教えなければ、と。
 一瞬いっしゅん、なるほどと思いかけて、いやいや待てよ、と思った。せみを採ったり甲虫かぶとむしをつかまえることは、自然と親しむことにこそなれ、自然を破壊はかいすることにはならないのではないだろうか。むしろ、そういう体験をすることなしに大人になってしまうことのほうが、こわいような気がする。
 貴重きちょうな高山植物やちん種のちょうを採ることはもちろん規制されてしかるべきだろう。が、そういう特殊とくしゅな例を除けのぞ ば、昆虫こんちゅう採集の禁止は、それこそ近視眼きんしがん的な発想ではないかと思う。子どもが採集するぐらいで、せみ昆虫こんちゅう絶滅ぜつめつしたりはしない。山を切り崩しき くず たり、ゴルフ場を造ったりするほうがよっぽど虫たちを脅かすおびや  ことになるだろう。
 そんな愚行ぐこうから虫たちを守ろうと、将来しょうらい発想することができるのは、どんな育ちかたをした子どもだろうか。せみ甲虫かぶとむしも見たことがない、というのでは、はなはだ心もとない。
 ファーブルも、さまざまな実験の途中とちゅうでは、多くの虫たちを死なせてしまっている。せみをフライにして食べちゃったりもする。が、ファーブルが心から虫を愛していた人であることはいうまでもない。昆虫こんちゅう採集禁止をとなえる人は、ファーブルの行為こういもまた残酷ざんこくだというのだろうか。
 愛情は、なにもないところからは生まれない。まず「知る」ことが、愛情のめばえのスタートだ。

(俵万智まち「二十一世紀の子どもたちへ」(『世界文学の玉手箱四 昆虫こんちゅう記 下』(解説)(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ所収しょしゅう)より)
 323130292827262524232221201918171615141312111009080706050403020100