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 「ガッツがある」とか「根性が足りない」とかいった言葉をよく耳にしますが、わたしは、どうも好きになれません。そもそも〃guts〃なんて、「臓物ぞうもつ」という意味だし、この言葉の音が汚いきたな のも、嫌いきら な理由の一つです。根性も、本来の仏教語では、「草木の根にたとえられる人間の性質」のことですが、現在では違っちが た意味に使われるのでいやな言葉の一つになりました。
 ものごとを一所懸命いっしょけんめいにやることは本当に大切なことです。ただ、目を血走らせ、ムキになった、むきだしの表情を、わたしは好まないのです。闘志とうしは表面に出さず、内に秘めひ ておくもの、これがわたしの美意識だからです。
 「一心不乱いっしんふらん」はすばらしいのですが、「盲目的もうもくてきないちず」が困るこま のです。いつも「主人公」が目覚めていなくては、お話になりません。そのためにも、そこに「遊び」が必要ではないでしょうか。つまり、余裕よゆうです。「遊び」には、大事な意味がいくつかあります。たとえば、肝心かんじんなのは、「自分のしたいこと」を「楽しむこと」です。いわば、自分の好きなことをして「楽しむ」のです。それに、「機械の遊び」という場合の「遊び」のような「余裕よゆう」「余地」、「遊びの時間」のような「ひま」が大切です。
 自動車のハンドルにも、「遊び」があります。あの遊びがなかったら、ずいぶん運転しにくくなるでしょうし、第一、危険きけんです。ハンドルに遊びがあるので、少しばかり手がすべっても、急に変な方向へ曲がらないですむのです。人生という車にも、この「余裕よゆう」「ひま」という遊びがないと危険きけんです。
 子供こどもたちの天職は、遊ぶことです。たっぷり遊ぶのが役目です。しかし、部活だの、じゅく通いだの、受験勉強だの、すべて強制、半強制のわくの中で、せかせかした生活をしています。小学校、中学校、高等学校を、このように過ごさざるを得なかった学生たちを見ていると、わたしは、一大学教師として、もの悲しさで一杯いっぱいになるのです。
 わたしどものところでは、学生たちは、二年に進むとき、自分の専攻せんこうしたいコースを選びます。その際、英米文学コースを志望す
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る学生たちを集めて、一人ずつ面接をします。そして、あれこれ質問するのですが、近年はますます幼稚ようちさが目立ちます。大学へ入ったけれど、一体自分が何をしたいのか分からない。英米文学コースに所属したいらしいが、何を学びたいわけでもない。文学をやりたいなどと言いながら、文学作品などほとんど読んだことがない。人生や、宗教しゅうきょうや、友情や、人間の様々な側面に深い関心をもたずして、文学などと、まったく何をかいわんや、です。
(中略)
 ものをおいしく食べるにはお腹 なかをすかせたらいい。そうしたら、強制されなくても、だれだって自分から食べようとします。同様に、本来の人間に備わっている好奇こうき心が働き出せば、自然に知識欲ちしきよく湧いわ てきて、自然に勉強したくなります。そんな状態においてやるのが、本来の教育です。子供こどもたちの、一人一人が持って生まれた「個性」、それを引き出してやるのが、教育者のはずです。しかしながら、無理やり、知識を頭の中へ詰め込まつ こ れた結果、人間本来の好奇こうき心がすっかり消えてしまったのです。それも、感受性が最も強く、人間の心の勉強をするのに最も適している時期に、外から、よけいなもので一杯いっぱいにされて、本来の好奇こうき心の働く余地が、すっかりなくなってしまったのです。画一的に鋳型いがたにはめられた結果、遊びの好奇こうき心も、自由に働く想像力も、新しい発見の創造そうぞう力も、みんな学歴主義に塗りぬ 込めこ られてしまいました。
 想像力は心に必要な遊びです。心が本来の自由な姿すがた戻れもど ば、人間の想像力が働き出します。この想像力の遊びもまた、心にとって栄養となります。想像は創造そうぞうにつながります。想像がさらに深まれば、「思いやり」となって、人間関係を創造そうぞうするのです。
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