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 読書の楽しみは一人でできる楽しみです。を打つには相手がいる。野球を楽しむには自分の他に少なくとも十七人の賛同者が必要でしょう。そういう楽しみは、いつでもどこでも、というわけにはゆきません。道具や、設備や、場合によっては途方とほうもなく広い場所がなければ、どうにもならない。読書の方は、設備も要らず、どこかへ出かけるにも及ばおよ ず、相手と相談もせず、気の向くままにいつでもどこでもできます。ほたるの光まどの雪というのは、貧富の差が大きく、灯火用の油の値段ねだんが高すぎたむかしの話です。今は電気がいたるところにあるので、だれでも、望めば昼となく夜となく好きな本を読むことができるでしょう。こんな便利な娯楽ごらくはめったにありません。
 しかも、当方の体力とはほとんど関係がない。老人子供こども、病人でも、多くの場合には、それぞれ読んで楽しめます。疲れつか ているときでも、易しい疲れつか ない本を選びさえすればよい。しかもカネがかからない。本が高くなったといっても、どこかの「ファミリー・レストラン」で二、三度食事をする値段ねだんで、大抵たいていの本は買えます。それでも買えないほど高い本は、公共図書館にあり、そこから借りればタダですむでしょう。こんなに安くて便利な楽しみを知らぬ人がいるとすれば、その気の毒な人に同情しなければなりません。
 「オーディオ・ヴィジュアル」の情報が、活字情報を駆逐くちくする(追いはらう)時代が来た、という人がいます。「ヴィジュアル」とは感覚的ということで、たとえば肖像しょうぞう写真が一人の男または女の顔を示すのは「ヴィジュアル」な情報です。しかしその他のだれとも違うちが 顔の特徴とくちょうを言葉であらわすのは容易なことではありません。肖像しょうぞう写真は、活字の何十ページ、いや、おそらく何百、何千ページに相当する情報を一挙に伝えることができます。しかしその男または女が、昨日はソバを食べた、明日はウドンを食べるだろう、という活字の一行に相当する情報を伝えることはできません。肖像しょうぞう写真は人物の顔の現在であって、過去も、未来も、表現できない。ヴィジュアル」な情報と言葉による情報(そのひとつが活字情報)とは、互いにたが  他を補うおぎな ので、一方が他方を駆逐くちくするので
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

はないし、一方が他方に代わるのでもありません。言葉は耳で聞くこともできます。耳で聞くのが「オーディオ」。活字の文章は、声に出して読んでテープレコーダーに記録することができるでしょう。しかしそうすることが便利な場合と、不便な場合があります。活字の文章でなく音楽の記録ならば、あきらかにテープレコーダーが便利な道具です。六法全書をテープレコーダーに吹き込むふ こ のは、あまりに不便だからだれもしないことです。要するに活字時代の後に「オーディオ・ヴィジュアル」の時代が来たのではなく、活字情報に「オーディオ・ヴィジュアル」の情報が加わったというだけのことです。どちらも楽しめばよいので、どちらか一方だけを選ぶ必要はまったくありません。
 それでは読書そのものに、どういう種類の楽しみが伴うともな でしょうか。それは人により、本によって違うちが でしょう。もし共通の楽しみがあるとすれば、それは知的好奇こうき心のほとんど無制限な満足ということになるかもしれません。世の中には好奇こうき心を刺激しげきする対象が数限りなくあるでしょうから、対象を移して、好奇こうき心の満足を広げてゆくこともできるでしょう。読書の楽しみは無限です。時間をもてあましてすることがない、といっている人の心理ほどわかりにくいものはありません。人生は短く、面白そうな本は多し。一日に一さつ読んでも年に三百六十五さつ。そんなことを何十年もつづけることは不可能で、一生に一万さつ読むのもむずかしいでしょう。それは、たとえば東京都立中央図書館の蔵書ぞうしょ一五〇万さつ以上の一%にも足りないということです。面白そうな本を読みつくすことはだれにもできないのです。すべての本は特定の言語で書かれています。日本で出版される大部分の本の場合には、日本語です。本を沢山たくさん読むということは、日本語を沢山たくさん読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと魅力みりょくを知るということもあるでしょう。わたしは本を読んで日本語の文章を楽しんで来ました。それも読書の楽しみの一つです。
 
 (加藤かとう周一 「読書術」による)
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